2009年02月28日

衣の里八景 いまむかし





衣の里八景 
牧野竹亭画(木版)・伊藤茂書(和歌)
この図は永田蘭泉(1722~1811)の漢詩「衣里八景」を題材に竹亭が写生し、松下慎典、根本霊磨、黒木樹三郎が明治20年代に詠んだ和歌を合成したもの。(教育委員会刊「挙母資料にみる明治大正昭和のあゆみ」より抜粋)




消えた衣の里八景を探す

職にあった当時企画した「今昔写真展」で場所の不明な写真が出てきた。調べていくうちに「衣の里八景」に詠われた霊岩寺(写真②)ということがわかった。八景の出典は文化年間に永田蘭泉が詠んだ漢詩「衣里八景」で、次のとおり。

1 柳池夕照(畔柳池
2 前川帰帆(久澄橋下流)
3 金谷酒旗(三光寺付近)
4 集雲晩鐘(国宝の信長像で有名な長興寺)
5 岩瀬丹楓(霊岩寺)
6 子守桜花(挙母神社)
7 梅村吹笛(梅坪地内)
8 波岩漁舟(平戸橋下流)
の八カ所で赤文字の1と7は場所不明。

私は場所不明の八景を特定するため、1の「畔柳池」は
1 挙母のまちの近郊で水源となる山があること
2 明治末期には消滅しているため、埋め立てられる理由があること
から、当時地場産業の核として誘致した加茂製糸に白羽の矢を立てたが、竣工が大正6年で白。他の製糸工場を調べたがこちらも白。諦めかけたが、加茂製糸が旧い製糸工場の跡地に建設されたとの情報をもとに図書館に通い、『明治34年「畔柳池」を埋めたてて厚生館製糸工場建設』という意味の記述を見つけた。

今、衣の里八景の跡地には近代的な産業文化センター(写真①)が建ち、「青柳の影にささ波打ちよせて夕日はへある池の面かな」(松下慎典)と詠まれた「畔柳池」の物語を知る人はいない。 (7は未だ場所不明)



(写真①)衣の里八景に詠まれた「畔柳池」が眠る産業文化センター


霊岩寺の夕涼み





(写真②)大正6年7月 「いにしえの岩瀬の滝の音は絶えぬれど残るは岸の黄葉なりけり」(根本霊麿)と「衣の里八景」に詠まれた霊岩寺前の岩瀬の滝に挙母遊園地が開園。霊岩寺は元挙母藩主三宅氏の菩提寺で、太古の時代には矢作川がこの辺りまで蛇行していたという。





(写真③)09年冬 写真②と同じ角度で撮影したが岩瀬の滝の痕跡はどこにもない。私が今昔写真展で場所が特定できなかった理由が理解いただけるのではないか。





(写真④)09年冬 岩瀬の滝の水源となった梅坪山の梅林(平芝公園)


















  


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2009年02月25日

鈴木五郎の四都物語を見た



織部花器H64.5×w64.0×D36.5㎝(鈴木五郎の四都物語|JR名古屋高島屋美術画廊)


顔を洗って出直しだ

ひと足早い菜種梅雨の昨日、「鈴木五郎の四都物語」の最終日を見た。昼時で五郎さんは不在だったが織部の花器に足がとまった。悔しいがいまの自分の力量ではこの織部に勝てない。顔を洗って出直しだ。


  


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2009年02月21日

写真で見る平戸橋のいまむかし



①明治28年に架けられた平戸橋。写真は左岸の馬場瀬側から撮ったもので、建築中の家が数軒見えるだけで原野が広がっていた。(若子写真館所蔵)


平戸橋は名古屋から信州へ続く飯田街道の要衝

矢作川に架けられた平戸橋は、名古屋から信州へと続く飯田街道の要衝となる橋で、明治15年に当時の平井村と越戸村の間に架けられたことから名付けられた。この橋は二度流出したため、明治28年上流の現在地に写真の橋が架けられた。

この橋から上流一帯は勘八峡と呼ばれ、昭和2年には愛知県新10名所(注①)に選ばれるなど、県下でも有数の景勝地として親しまれてきた。また、橋の下流一帯は、古くから古鼠土場、百々土場、越戸土場が川湊として栄え、上流から管流しされた木材は岸部の土場で筏に組み直され、下流から川船で運ばれた物資は、善光寺街道(飯田街道)や岩村街道を通って遠く信州や東濃方面に運ばれた。

昭和20年代に入ると良質の陶土を求めて瀬戸から加藤唐九郎、岡部嶺男、京都から河村喜太郎などが移り住み、陶磁研究家で数寄者の本多静雄翁の徳を慕って全国から著名な学者や文化人が訪れるなど、平戸橋は芸術の郷として変貌していった。

日本の復興とともに各地から移り住んだ芸術家は活動の拠点を中央に移し、一帯は閑静な住宅街に代わったが、本多静雄翁の提唱した「民芸の渓」構想をもとに、全国有数の民芸館が整備されるなど、平戸橋は「民芸の里」として現在に至っている。



②古井彦宗家の襖に描かれた古鼠土場の風景(古井幹彦氏所蔵)



③右岸(西側)から見た大正2年頃の平戸橋(若子写真館所蔵) 



④大正末頃の勘八峡。右の川舟は上流の富田方面に向かう遊覧船。帆を張った川舟は鮎漁でもしているのだろうか。山が白く見えるのは薪などに伐採された爪痕で、当時の燃料事情が透けて見えるようだ。(若子写真館所蔵) 



⑤猿投町観光協会が観光用に行った鵜飼を記録した観光はがき。鵜飼船と上の写真の遊覧船の形が同じことから、上の写真も同じ頃撮影したのものと思われる。(若子写真館所蔵)



⑥昭和4年勘八峡に越戸ダムが竣工(澁谷朗氏所蔵)



⑦昭和30年越戸発電所と対岸の馬場瀬を結ぶ観光用の吊り橋が架けられたが伊勢湾台風で流失。昭和43年頃二代目の吊り橋が架けられたがこの吊り橋も豪雨で流失した。(澁谷朗氏所蔵)



⑧09年冬景色の勘八峡。白い建物は越戸発電所。④⑥⑦の写真と比較して興味深いのは植生の変化で、赤松などの松林が消滅しクヌギなどの雑木林に代わったのが分かる。



⑨09年冬景色の平戸橋下流。写真中央左の突き出た岩場周辺に写真②の古鼠土場があった。写真では見えないが古鼠土場から500メートルほど下流の左岸には百々土場の遺構が保存され、右岸の竹藪の中には岩村藩の年貢米を江戸に運んだ越戸土場の遺構が眠っている。



⑩半分埋まったまま保存されている岡部嶺男の窯址(注②)



⑪09年冬景色の豊田市民芸館。昭和58年東京駒場の日本民芸館の一部を移築復元してオープンした民芸館は、「衣」をテーマにした第一民芸館、「食」をテーマにした第二民芸館、「住」をテーマにした第三民芸館のほか、猿投古窯記念館や茶室、洋館からなる日本でも有数の民芸館として親しまれている。


(注①)
愛知県新10名所の制定年は、「昭和2年に愛知県新10名所に指定された」と記した平戸橋公園の記念碑から「昭和2年」としたが、猿投町史によると「大正10年頃」と記述されている。猿投観光協会が鵜飼を誘致した背景、また昭和2年に越戸ダムの工事が着手していることなど、総合的に判断すると町史の方が正しいような気がするが、二説とも公式の文言のため、機会を見て調べてみたい。

(注②)
窯址の前に「加藤唐九郎窯址」の石碑があること、また郷土史関係の記述も同様のため、当初のブログで「加藤唐九郎窯址」とした。このことついて岡部嶺男氏の遺族から窯址は「昭和33年4月に父嶺男が築いた窯で、民芸館にも訂正の申し出をしている」旨のご教示をいただいたため、「岡部嶺男の窯址」と訂正した。

  


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2009年02月17日

いけばなとは彼岸と行き来する通い道 下田尚利





下田尚利 しもだたかとし
1929年東京都生まれ。早稲田大学芸術学科卒。「新世代集団」、「集団オブジェ」、「いけばな批評」同人などをはじめ、前衛いけばなの時代から現代まで、いけばな界に大きな影響を与える。著書に「なぜ花をいけるか」など。大和花道家元。「Fの会」代表。


民俗を源流とする
同時代性いけばなの到達点


私は「いけばなの現在を一人でも多くの人に伝えたい」とブログをはじめた。力量不足でまだ端緒にもついていないが、私が密かにライフワークにしたいと思っているのは、工藤昌伸(いけばな研究家)、北條明直(華道大学学長)、重森弘淹(写真評論家)など、現代のいけばなを確立した先学を「史」として顕彰することで、この発心はいまもぶれていない。

そんな畏敬する先学の一人で、現在も第一線で活躍しているのが下田尚利先生である。美術評論家の三頭谷鷹史さんは著書「前衛いけばなの時代」の冒頭で、「彼は前衛いけばな運動を創出した当事者の一人であり、工藤昌伸、重森弘淹、勅使河原宏とともに新世代集団を結成し、いけばな界の中で左翼的な前衛運動を展開した。(中略)生の花を使った作品は、そのすべてが消滅していることもあって、体験世代の優れた観者が語る言葉がきわめて重要であり、その点で下田は最良の語り部である。」と述べているように、かけがえのなさにおいて、下田先生は中川幸夫と双璧と目されている。

下田先生の凄いところは傘寿を迎えてなお旺盛な制作意欲が衰えないことで、越後妻有アートトリエンナーレ2006「小白倉いけばな美術館」で発表した「風の栖」の鮮烈な衝撃は、いまも脳裏から離れることがない。偏りを承知でいえば「風の栖」は、民俗を源流とする同時代性いけばなの到達点をしるしたもので、私は「Fの会」の同人の一人として、歴史的瞬間に立ち会うことができた幸運を思わずにはいられない。


「風の栖」下田尚利

片桐邸、築300年の大黒柱と奥の仏壇をとりこんで、私が何回か続けている「風の栖」をと考えた。「栖」を通り抜けたところで仏壇に出会い、みんなにお詣りしてもらおうと、仕事を進めているうちに、いろんなことがわかってきた。「いける」という行為は、彼岸からのサインである「花」を通して、ひたすら彼岸とやりとりを続けることだし、「いけばな」とは、彼岸と行き来する通い道なのだと、改めて気がつき、深く納得した。(小白倉いけばな美術館図録より)


素材:桃、稲、雨戸、布、和紙、ひめしゃら、えごの木、柳、梅、みやまかいどう、ひまわり、洋種山ごぼう|場所:新潟県旧川西町小白倉「片桐喜久男邸」|広さ:24畳|撮影:尾越健一









  


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2009年02月13日

今日は春一番 蠟梅の残り花をいける



花:蠟梅、椿、松|花器:中島将夫青磁筒花器|自宅玄関



中島将夫という高麗青磁の名手がいた

私は何でも凝る方で一時期麻雀に嵌まったことがある。メンバーは小さな会社の社長、料理屋の大将、建築家、火葬場の運転手、舞台照明家、陶芸家、議員などで、なんでこんなメンバーになったかわからないが、みんな夜が明けるまで卓を囲んだ。天敵は陶芸家の中島将夫さんで、「ハブだ」の「マングースだ」のと互いに悪口を言って楽しんだ。

中島将夫さんは、美濃焼で知られる土岐の窯元の家に生まれ育ち、縁があって豊田市に移り住んだ。若くして家を出たため、社会的には無名だが、韓国を代表する陶芸家の池順鐸に師事をした高麗青磁の名手で、毎年夏になると韓国に渡っていた。私に気を使わせないためか、「いらな誰かにあげりん」と言って、新聞紙で焼き芋のように包んだ青磁の茶碗をいただいたこともたびたび。写真の青磁の花器も池順鐸の窯で焼いたものとのことで、やはり同じように新聞紙で包んで「あんた使いん」と言って煙草に火をつけた。

私の個展など自分のことのように寸暇を惜しんで助けていただいたが、私は憎まれ口を返しただけ。「かとうさんが言っていた粉引の大鉢でも何でも作るから、絶対花をいけてよ」と言ったのが最後の言葉で、中島さんは帰らぬ人となってしまった。
  


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2009年02月10日

作品ライブラリー(16)灼熱の常滑と窯のある広場(2)



製材された生木の香りに包まれたINAX窯のある広場「倒焔式角窯」のインスタレーション


みんなの笑顔が走馬灯のように浮かんでくる

宮島達男の数あるデジタルカウンターの作品の中で最も印象に残っているものにアートの島として知られる直島の家プロジェクト「Sea of Time 98」、「時の海」と題した作品がある。この作品は、直島の木村地区の民家を改修して作品化したもので、宮島は地域の住民と協働して制作したそうだ。民家の空間を海に見立てた水の中に、集落の人が持ち寄ったデジタルカウンターが命を刻むように点滅していた。ホタルの光のように淡く 一つひとつに生命が宿っているようようで思わず手を合わせた。

悠久な宮島の「時の海」に比べるべくもないが人間の記憶の回路の劣化は早い。当時窯のある広場を担当していたのはINAXの鬼頭さんという総務部長で、いろいろと便宜を図っていただいたのを覚えているが、どのような経緯で事が進んだのか霞がかかったように思いだせない。今頃気がついても遅いが、縁もゆかりもない余所者の自分を気持ちよく受けて入れてくれた背景には、多くの人のサポートがあったことは想像に難くない。加藤龍子さんは言うまでもないが、まず吉川正道さんと千香子さんの顔が浮かぶ。次に鯉江良二さん、当時INAXのデザイン部長をしていた家坂ルリ子さんのご主人etc。みんなの笑顔が走馬灯のように浮かんでくる。

狩猟民族と農耕民族の違いを痛感

会期は昭和62年1月5日(月)~11日(日)と決まった。当時ディビット・ナッシュやアンディー・ゴールドワジーなどイギリスの作家に衝撃を受けていた私は、いけばなの独自性を求めて足助の山に足蹴となく通ったが、森林の臭気に圧倒されて収穫ゼロ。狩猟民族と農耕民族の違い、体力の違いを痛感させられた。そんなとき見つけたのが森林組合の製材された生木が放つ香りだった。一夜干しの魚が魚の旨味を増すように、製材は生木にとって死を意味するものではなく、新たな命の始まりと思った。

もう迷いはない

本格的に準備を始めたのは11月に入ってからで、まず窯の図面を引いて寸法を割り出した。条件は「安全性と壁面に触れないこと」という二点で、あとは自由とのことだった。もう迷いはない。同時進行でムシロフェンスの準備を進めた。問題は現場制作で、INAXが年末年始の休みに入ってしまうからだ。この難問は「鍵を預けるから責任をもって管理してください」という鬼頭さんの一言で決まった。

INAX窯のある広場について、(1)(2)に分けて、ざっと思いつくまま記したが、すべてが幸運の重なりで、自分は人の善意の上に生かされていたと改めて思う。最終日搬出が終わったあと、空を見上げると白い雪が降ってきた。「最後は雪が降るといい」と龍子さんと話していたが本当に雪が降ってくるとは思わなかった。このとき、群れて楽しんで、夢がヒカッて、ただ前しか見えなかった「私の花」の第一ステージの終りを予感した。(1)で「もう一度戻りたい場所がある」と見出しに記した理由である。



小原挿花現代花人列伝

小原挿花は小原流の機関誌で、特に70年代から80年代にかけて、流派を横断した斬新な編集方針で現代いけばなの動向に大きな影響を与えた。現代花人列伝はその小原流挿花がシリーズとして掲載したもので、流派を超えて有力な花人を取り上げるという、今では考えられない無謀な企画が話題をよんだ。前衛が時代をひらくというが、現代いけばなに小原挿花が果たした役割を私たちは忘れてはいけない。





1987年小原挿花9月号の現代花人列伝に掲載されたINAX窯のある広場の個展













  


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2009年02月08日

作品ライブラリー(15)灼熱の常滑と窯のある広場(1)



INAX窯のある広場資料館の全景(1986年)


もう一度戻りたい場所がある

この道を歩きはじめてまもなく半世紀近くなるが、もしタイムトンネルがあって希望が叶うなら、もう一度戻りたい場所がある。その一つが常滑のINAX窯のある広場である。1986年の熱い夏の一日、私は龍生派の加藤龍子さんに案内されて常滑に向かった。どこをどんなふうに行ったのか覚えていないが、「着いたよ」と龍子さんに言われて車を降りた。

周りを見渡すと黒いコールタールで塗られた工場の中庭のような場所で、大きな煙突が聳えていた。何か異空間に迷い込んだような不安感に襲われ龍子さんの背中を探したがいない。「早く行くよ」という声に導かれるようにして建物の中に入った。まだその時はここがどんな場所で、何のために案内されてきたのか、私は気がついていなかった。

2階から眼下に姿を現わした巨大な窯を見たときの衝撃を今も鮮やかに覚えている。「火の魔王が眠っている」と、膝がガタガタと音を立てて崩れた。車を降りたときの不安感の正体はこの魔王のせいだと気がついた。こんなことを書くと作為に過ぎると思われるかも知れないが、灼熱の常滑と巨大な窯と龍子さんの一期一会の出会いは、夏がくるたびに思い出す。

INAX窯のある広場の個展は、このようにしてはじまったが、決断したのは夏も終わるころだった。「常滑の聖なる場所に余所者が立ち入ってはいけない」と自制する自分と、「やってみたい」と逸る自分の整理に時間がかかったからである。背中を押したのは常滑を代表する陶芸家の鯉江良二さんと吉川正道さんの「やりたいものがやればいい」の一言だった。龍子さんにそのことを伝えると「やっと決めたかい」と笑った。


常滑と倒焔式角窯

常滑は日本六古窯の一つに数えられ、明治初年にこの地で陶管の量産が行われるようになって以来、昭和30年代まで「土管のまち」として親しまれてきた。現在では中部国際空港が常滑沖合に開港、町中に数多く見られたレンガ造りの煙突と窯も姿を消そうとしている。時代の趨勢とはいえ一抹の寂しさを禁じることができない。窯のある広場の倒焔式角窯は土管のまち常滑を象徴する産業窯で、97年国の登録文化財に指定された。

倒焔式角窯とムシロフェンス



2階から見た倒焔式角窯の全景とINAX窯のある広場個展 ムシロフェンスⅠ(1987年)



INAX窯のある広場個展 ムシロフェンスⅡ(1987年)



INAX窯のある広場個展 ムシロフェンスⅢ(1987年)









  


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2009年02月04日

今日は立春 ちょつとひと休み




ちょっとひと休み

今日は立春。ニュースによると3月中頃の陽気だそうだ。夕方に編集中の図録の打合せが一件入っているのみで、ちょつとひと休み。カメラと鋏を持って近場の春を探しに出かけた。上の写真の「菜の花」は豊田スタジアム東の畑で見つけたもの。近くの千石遺跡で平安時代前期の利水施設の発掘調査をしていたが、こちらはまたの機会に。

下の写真は、昭和2年に愛知県10名勝の一つに選ばれた「勘八峡」で、お目当ては羽根を休める水鳥。目視のためはっきりとはわからないが、カルガモやオナガガモなど100羽近い水鳥が羽根を休めていた。



「花」は古来より奥三河の花祭りに象徴されるように、季節の先き触れを告げる聖なるものとされてきた。岬の「ハナ」、レースでトップランナーを「ハナ」を切る、あるいは人間の顔の高い位置についている器官を「ハナ」というのも、同じ意味で、ものごとの最初に現れることに由来するそうだ。そんな訳で最後はやはり自生の花木の咲き具合が気になる。蠟梅は旬を過ぎ今は山茱萸の花が旬。梅と椿は場所によって1ヶ月近いズレがあって一概に言えないが三分咲と言ったところか。仕上げは花木ハンターの手土産?を玄関に活けてお終い。



花木:三椏、梅、椿、南天、柾、松|花器:猿投窯山田和俊焼〆め
  


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2009年02月02日

いま 鈴木正三に学ぶ



江戸時代初期に活躍した豊田市出身の仏教思想家、鈴木正三の出発点となった恩真寺の全景
毎年6月第4日曜日に全国各地の徳を慕う人や研究者が参集して「正三忌」が開かれている。


世界で初めて職業倫理を説いた鈴木正三

バルブの崩壊以降、職業倫理を説いた社説を幾度となく目を通したが、ほとんどがドイツの社会経済学者のマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を引きあいに出している。稀に石門心学の開祖石田梅岩を取り上げた社説もあったが、中日新聞の「中日春秋」を除いて、日本の近代思想史で一番重要な鈴木正三の名前が出てこない。

私は、鈴木正三研究会の設立や正三ゆかりの天草との交流、舞台化やアニメ化、合唱ミュージカルの制作に関わったため、身贔屓にとられるかも知れないが、亡くなった作家の山本七平は「正三は日本の近代化に最も大きな影響を与えた思想家であり、その点で日本の近代化による世界への影響を通じて、世界に最も大きな影響を与えた日本人の一人ということができる」と述べている。また講演会に招かれた童門冬二は「正三は士農工商という縦の階級を横(平等)にしてその意味と役割を説いた初めての人」と結んだ。詳しくは失念してしまったが司馬遼太郎は、NHKの特集で日本の近代化に影響を与えた10人を選び、正三をとりあげるなど、鈴木正三の研究と再評価は国際的な広がりをみせ現在に至っている。

その鈴木正三が開基したのが市内山中町の石平山恩真寺で、境内には正三の墓のほか、3代将軍徳川家光の遺財で鋳造した梵鐘、正三が修行した座禅石や滝の遺構が残されている。


恩真寺の参道の登り口に聳えている正三が植えたと伝えられる「正三杉」


社説が鈴木正三を見落とした理由

鈴木正三は、思想、宗教、文芸とその業績が多岐にわたっているため、長い間、正三の全体像は禅の鈴木大拙やインド哲学の中村元博士など著名な宗教家や研究者など専門家の領域で、「しょうさん」と読める人は稀という状態が続いていた。各紙の社説が正三の職業倫理に学んだ石門心学の石田梅岩を日本の職業倫理(資本主義)の端緒とするのはこのためで、こうした情況を憂いた高橋秀豪さんや鈴木茂夫さん、正三の生まれた地元の則定の有志が中心になって1975年、旧足助町で鈴木正三顕彰会を設立。正三研究はようやく端緒についた。

1975年:鈴木正三顕彰会設立
1983年:豊田市鈴木正三顕彰会設立
1995年:鈴木正三の再評価に向けたプロジェクト実施
1997年:鈴木正三研究会が発足し、毎年研究収録を発行
2005年:鈴木正三没後350年プロジェクト実施
2006年:鈴木正三全集(上巻)発刊
2007年:鈴木正三全集(下巻)発刊

鈴木正三研究は「鈴木正三全集」として完結したが、拓殖大学客員教授の神谷満雄先生の深い学識と徳が結実したもので、私は事務局の一員として神谷先生の薫陶を受けた幸運に感謝している。なお、小稿で「職業倫理」という言葉を使ったが、正三七部の書の『万民徳用』は、「生きるとはなにか」を「仏業即世法」として説いたもので、いまこそ、働くことの意義を通して人間の尊厳を唱導した鈴木正三に学ぶべきではないか。


鈴木正三の再評価に向けたシンポジウム(1995年)のチラシ。坐像は正三の生地則定の
心月院に伝わる正三像。眼を見開き、拳を握っているのは正三が唱えた仁王禅を現わしている。


鈴木正三の主な書籍の入手方法

(専門書)
鈴木正三全集上下巻|豊田市郷土資料館☎0565-32-6561
鈴木正三研究集録|鈴木正三顕彰会☎0565-63-2055(柴田)
鈴木正三七部の書復刻版|豊田市文化振興財団☎0565-31-8804
(普及版)
PHP文庫 神谷満雄著「鈴木正三」 定価762円(税別)


このほか、鈴木正三の研究並びに顕彰活動について
私(かとう)のこのブログにアクセスいただければ情報提供いたします。






  


Posted by かとうさとる at 05:12 | Comments(2) | とよた風土記