2008年12月30日
風土記 射穂神社と海人伝説

迎春の準備を終えた射穂神社
ゆく年くる年を探しに近くの射穂神社(いぼじんじゃ)に足を運んだ。
射穂神社は672年(白鳳元年)9月に創建された「式内社」で、
神社のある山頂から平地を眺めるとこの神社の格式と意味がよくわかる。
猿投古窯の謎
須恵器の時代から鎌倉時代の始めにかけて、千基をこえる窯が焚かれたという猿投古窯の焼き物は、全国に流通し、北限は遠く仙台まで流通したと言われている。いま私が興味をもっているのはこの物流の流れで、折に触れて猿投古窯の本を広げて見るが、物流に関する記述を見たことがない。
こうなると独断で推理するしかない。私は密かに矢作川水系の水運を利用したのではないか、と仮説を立て、古窯址群の位置や水系の地形から、「土場」(荷を積み下ろす川の湊)の位置も特定しているが、残念ながら証明する手がかりは何もない。
手がかりがテレビから飛び込んできた
そんな訳で猿投古窯の物流のことは忘れていたが、ある日、とんでもない手がかりがテレビから飛び込んできた。平成17年3月23日に放映された「みのもんたの日本ミステリー」で、番組は《ジパング黄金の都は吉野に存在した?》と奇想天外の仮説を展開した。航空自衛隊の田母神論文と同じで絶句してしまったが、こちらは人畜無害で笑ってしまった。
射穂神社と海人族伝説
歴史の定説では、東大寺の大仏建立に用いた金は、百済から亡命した帰化人の子孫が東北地方で発見したとなっているが、金は東北地方ではなく紀伊半島の吉野で産出した、と言うのである。金を発見したのは「壬申の乱」に登場する「海人族」という謎の集団で、彼らは航海術に長けた新たな知識をもった渡来人(海人族がどこから来たかは失念)と断定した。番組はさらに謎の海人族の存在を証明するため各地に残る海人族の痕跡をとりあげた。記憶では3~4箇所だったと思うが、その中に見覚えのある神社があった。私はその写真を見て目が点になってしまった。テロップでは愛知県としか記されていないが、どこから見ても地元の射穂神社だったからである。
番組は「海人族は海から川の上流に上り、肥沃の場所を選び海人族の神を祀った」と言う由来の説明をした。真偽のほどは知らないが、私が仮説を立てた猿投古窯の物流ルートそのもので、思わず飛び上がってしまった。これ以上書くと「講釈師見てきたような」なんとかになるためマウスを置くが、射穂神社にお参りすると、出土品の陶片から、見たことのない遠い昔のコミュニティが見えるようで不思議だ。
それではよいお年を。
2008大晦追記
知らないというのは恐ろしいもので私は海人族について全く知らなかった。調べてみて驚いたことがある。私は予てから猿投古窯の起源は出雲からきた加茂族の集団ではないかと推理してきた。焼き物の知識や技術は製錬などの金属技術が必要で、古来そうした知識と技術をもっていたのは出雲の加茂族で、当地にも加茂族の痕跡が多く散見するからである。その古代出雲の文化と繁栄をもたらしたのが航海術に長けた渡来人(海人)で、「出雲海人族」とよんでいるそうだ。私が「猿投古窯の謎」などと思っていたことも単なる無知によるもので恥ずかしいが、知らないこと、わからないことが多いということは、発見する楽しみが多いということで、悪いことばかりではない。そうでも思わないとやっていられない。
猿投古窯とは
豊田市の北部から名古屋市の東部丘陵地帯にかけて展開した猿投西南麓古窯祉群、通称「猿投古窯」は、昭和29年9月、愛知用水の工事現場から不思議な陶片を入手した陶磁器研究家の本多静雄氏が、破片の出た畑を調査して指摘したもので、その後名古屋大学を中心に発掘調査が行われ、空白の日本陶磁史を埋める一大古窯祉群の存在が初めて明らかになった。

射穂神社の参道。「みの説」は番組が作りだした寓話だが
番組の海人族渡来説は猿投古窯の起源の謎にも石を投げた
番組の海人族渡来説は猿投古窯の起源の謎にも石を投げた
2008年12月28日
豊田市文化芸術振興計画から(1)

豊田市教育員会が策定した豊田市文化芸術振興計画の冊子
信なくんば立たず
清水寺の貫主が選ぶ今年の言葉は「変」に決まった。ドイツではそのものずばり「金融危機」という言葉が選ばれたそうだが、私が選ぶとすれば「未曾有」で決まりだ。新聞各紙は米国のサブプライムローンに端を発した今日の危機的現状を「未曾有の経済危機」という言葉で表現している。「いまだ曾(かっ)て起こったことがないこと」という意味で、「未曾有」で間違いはないが、紙面が軽薄に見えて仕方がない。「信なくんば立たず」というが、すべての元凶は麻生総理の一連の言動で、私にも心当たりが多く、自戒の意味を含めて「未曾有」を肝に銘じたい。
はじめに
冒頭から余談に逸れてしまったが、豊田市教育委員会は本年4月、文化振興条例に相当する豊田市文化芸術振興計画を策定した。第7次豊田市総合計画に基づいて平成29年までの10年間の政策目標と具体的な取り組みを示したもので、まずは近未来の「とよたの文化」のあり方を論じるテキストの誕生を喜びたい。
文化芸術振興計画の詳細は豊田市の情報コーナーで冊子(パンフレット)を無料配布しているため割愛するが、「ふるさとの文化を継承し、新たな文化を創造して、人が輝き誇りがもてるまちづくりをめざします」という基本理念のもとに、3つの基本目標と12の政策方針、37の取組みと7つの重点事業が紹介されている。
豊田市文化芸術振興委員会
この文化芸術振興計画を実効性のあるものにするため設置されたのが豊田市文化芸術振興委員会で、私(かとう)も委員の末席を汚すことになった。すでに4回の委員会が実施され、豊田市のホームページで議事録が公開されているため関心のある方は是非検索いただきたい。
現下の世界経済危機は金融資本主義の構造が破壊したもので、修復するのは人間の文化力以外にない。豊田市もまた「トヨタショック」の直撃を受けているが、ものづくりの文化の原点にたちかえり、「とよたの文化」はどうあるべきか。私なりに委員会の活動と課題を随時発していきたい。
(委員)
委員会は文化関係、教育関係、学識関係、メディア関係、市民公募の委員13名で構成され、委員長は都築正道(中部大学教授)、副委員長は寺光彦(豊田市美術館長)の両氏で、委員は次の各氏。(五十音順)
石黒秀和、伊丹靖夫、加藤悟、神谷祐利子、釘宮順子、諏訪等、塚田宏之、都築正道、寺光彦、中垣和美、中野真理子、福田香緒里、丸井俊裕。

豊田市のまちづくりビジョン「人が輝き 環境にやさしく 躍進するまち・とよた」の基本構想を定めた「新とよたプラン21」の概要版。豊田市文化芸術振興計画もこのプランに基づいて策定されたもので、市の情報コーナーで入手できる。
2008年12月24日
風土記 三好池

三好池とカヌーの練習風景。遠景の山は猿投山
愛知用水(1959年1月竣工)が通水するまで、豊田市の西部から三好町にかけて多くの「ため池」(自然の湧水を溜めた農業用の貯水池)があった。悪ガキにとって「ため池」は格好の遊び場で、泳ぎも、魚釣りも、水の恐ろしさも、みんな「ため池」で覚えた。そんな訳で「ため池」を見るとセピア色の記憶がよみがえってくるような気がして、時の経つのを忘れてしまいそうになる。
愛知用水の貯水池として作られた三好池も、この地にあった「曲り池」や「新池」、「中池」、「下池」と呼ばれていたため池をもとに造成したもので、貯水量220万㎥。湖畔には2,000本の桜が植えられ、カヌーの国体競技や国際大会が開催されるなど、もう「ため池」とは呼べないが、地形は正直だ。頭隠して尻隠さずというが、湖面の形はどこから見ても「ため池」で笑ってしまう。泣き笑いという奴で、自分も頑張らなくちゃと思う。
2008年12月20日
大地の芸術祭「蓬平いけばなの家」の報告

森美術館で「インド美術の新時代」を観たが毒をもったアートは強い。赤信号で停止するような人間はアーティストには向かないらしい。写真は六本木ヒルズの屋上から見た師走の東京。
12月18日(木)、新宿の大和花道会館で「Fの会」の打合せがあり
第4回大地の芸術祭「蓬平いけばなの家」の概要が決まった。
協議の要旨は以下のとおり。
第4回大地の芸術祭
(会期)2009年7月26日(日)~9月13日(日)
(参加)26の国と地域から約150組(9月現在)
(作品)約300点(内過去開催のパーマネント作品160)
今後の進行予定
現在/作品最終調整
2月/パスポート販売開始
4月/東京記者発表予定
6月末/ガイドブック発売(予定)
7月~9月 芸術祭会期
蓬平いけばなの家
(タイトル)蓬平いけばなの家
(サブタイトル)未定
(内容)9人のいけばな作家の「はな」の世界を展観
(場所)十日町市松代蓬平集落(まつだい駅から車で約15分)
(イベント)いけばな里山学校|トーク&ガイド(作家の日)|いけばなの家フォーラム
(出品)宇田川理翁(東京)、大塚理司(東京)、大吉昌山(東京)
粕谷明弘(東京)、かとうさとる(豊田)、下田尚利(東京)、長井理一(東京)、早川尚洞(東京)、日向洋一(横浜)
2008年12月12日
風土記 自動車のまちは7割が森林

早咲きの梅の便りも聞かれそうな陽だまりで出荷を待つ南天(県道久木中金線)
南天の出荷が旬を迎えた
豊田市は自動車のまちとして知られているが、東北部は三河高原国定公園に指定され、面積の約7割を森林が占めている。そんな訳で林業や山間部の平地を利用した花木栽培が盛んで、南天や千両の出荷が旬を迎えた。
特に目がつくのが南天で、私は密かに足助の香嵐渓を迂回する国道153号線のバイパスとして知られる県道久木中金線を「南天街道」と呼んでいるが、全線南天の赤い実が途切れることがない。

グリーンファーム(栗園)の斜面の土留めとして植えられた南天
野生化した南天は花材として最高だがそれをしたら犯罪だ(県道久木中金線)
野生化した南天は花材として最高だがそれをしたら犯罪だ(県道久木中金線)

切り花用に栽培される南天
市内の山里ではこんな南天畑をよくみかける(県道久木中金線)
市内の山里ではこんな南天畑をよくみかける(県道久木中金線)

ひと足早く切り花用の南天を玄関に活けてみた
花材:南天、松、白玉、山茶花、槇/花器:吉川正道白磁
花材:南天、松、白玉、山茶花、槇/花器:吉川正道白磁
2008年12月09日
作品ライブラリー(11)いけばな公募展

グラン・パ・ド・ドゥ(1982年)
伝説のいけばな作家半田唄子
この作品は「ライブラリー10」でとりあげた、世界バレエフェスティバルのグラン・パ・ド・ドゥから想を得た連作で、発表したのは池袋のサンシャイン美術館で開催された「いけばな公募展」。
この公募展を見にきた中川先生(中川幸夫)と奥さんの半田先生(半田唄子:中川幸夫の最大のライバルと讃えられている伝説的ないけばな作家)が、私の作品の前で足を止めた。「これがかとう君の作品か」と中川先生。半田先生は挨拶をして先に行ったため、中川先生と二人になった。
話はそのあとの出来事で、中川先生が去ったあと半田先生が小走りで戻ってきた。「(作品について)かとうさん、中川は何と言っていた?」と半田先生。私はその言葉のもつ意味に言葉を失った。病魔に侵されていた半田先生とお会いした最後で、私はこの作品を見るたびに今でも半田先生を思い出す。
いけばな公募展/手漉き和紙、着色ロープ/サンシャイン美術館(東京)1982年
2008年12月09日
作品ライブラリー(10)バレエから想を得る

グラン・パ・ド・ドゥ(1982年)
グラン・パ・ド・ドゥ
次の作品に進む前に時計の針を少し戻したい。
この作品は「作品ライブラリー5」でとりあげた「和紙と木彫・陶と華四人展」で発表したもので、私が好んで使う色彩の「鉛丹」の端緒となった作品である。
想の元となったのは、1978年、上野の東京文化会館で観た「世界バレエ・フェスティバル」だった。私が30年も前に観た舞台の年を覚えているのは、同じ日、お茶の水の主婦の友ビルに「いけばなイベント」の企画書をもって工藤昌伸先生を訪ねているからで、前しか見えなかった眩しい日々の記憶と重なるからである。
バレエ・フェスティバルはその日の夜観たもので、1組のダンサーが演じたグラン・パ・ド・ドゥに鳥肌がたってしまった。この作品はこのときの衝撃を表したものである。
■素材:工事用建材、塗料/寸法径30㌢×長さ210㌢×7本
豊田市民文化会館(豊田)/1982年
2008年12月08日
メタセコイヤと豊田市美術館

水面に映えるメタセコイヤと列状の柱が美しい豊田市美術館
円錐形の樹形が美しいことから鑑賞用樹木として親しまれているメタセコイヤは、当初「化石」として発見されたため、長い間、中生代白亜紀末から新世代第4紀にかけて繁茂した絶滅種とされてきたが、1945年中国の四川省で自生種が判明。「生きた化石」として世界を驚かせた。豊田市美術館のメタセコイヤは、美術館と茶室をめぐる池の畔の森を形成。ヘンリー・ムアの「座る女:細い首」との静かな佇まいはいつ見ても心が洗われる。
中川幸夫の独り言
中川幸夫が、まだいけばな界の至宝として秘されていた20数年前、私の家に泊まったことがある。早朝マンションのベランダから遠くの景色を眺めていた中川先生は起きてきた私を見つけて、『かとう君、僕は悔しくて仕方がない。今、僕が展覧会をすると画商さんが世界中のいいものを見にいかせてくれるが、何を見ても「おお」と感動してしまう。もう10年とは言わないが、こんなチャンスがあと5年早くきてくれたら、負けないものができたと思うと悔しい』という意味のことを独り言のように話した。
残念ながら今の自分は、メタセコイヤを見ても、美術館の「不協和音-日本のアーティスト6人」を見ても、「ミシャ・クバル|都市のポートレート」を見ても、感心するだけで、時間が流れていく。この流れをなんとか止めなければ。

中川先生の書簡
2008年12月01日
風土記 尾張と三河の二国を分ける猿投山

冬支度をはじめた果樹園と猿投山
冬近し
正面に見える山を猿投山(さなげやま)といい、尾張と三河の二国を分け、古くから霊山として崇められてきた。山の西南麓一帯は奈良時代から鎌倉時代のはじめにかけて、千基を超す窯が焚かれたという猿投古窯址群が分布。山の北側は瀬戸の赤津から美濃につらなり、日本の焼き物はこの山を抜きにして語ることはできない。
現在、南の斜面一帯は果樹栽培が盛んで、特に桃は「猿投の桃」として東京方面に出荷され、亡くなった北條明直先生は「御地の桃は地元の山梨より美味」と絶賛。春になると桃と梨と桜と躑躅が重なるように咲き乱れ、晩秋の「あたご」(巨大な梨)まで、農家は手の休まることがない。
私の住んでいる保見は写真の左の山裾から数キロ西で、動物でいえばこのあたりは私の縄張りということになる。そんなわけで桃や李の花が咲くころになると鋏をもって猪のように徘徊。桃名人の林金吾さんは「かとうさん、あっちの木(花桃)はいくら切ってもいいけど、こっちはダメだよ」と心得たもの。今日も柿の紅葉が残っていればと、車を進めてきたが、果樹園はすでに冬仕度で、私の居場所はどこを探してもない。
作家で精神科医の加賀乙彦は人生の晩年を「夕映え」に譬え、堺屋太一は定年後の10年を「黄金の十年」と書いた。私はそのただ中にいるが、「夕映え」も「黄金の十年」も、走り切った人に与えられるご褒美のようなもので、キリギリスの自分には関係がない。
結末はわかっていてもこの道をいくしかない。

林金吾さんの畑で伐らせてもらった花桃を民芸館の広間に活ける(豊田市民芸館)1995年