2008年10月19日

あいち国際芸術祭の名称決まる

あいちトリエンナーレと芸術批評誌【リア】

10月14日、「あいち国際芸術祭2010(仮称)」の正式名称が発表された。名称は3年に一度という開催周期から「あいちトリエンナーレ2010」。テーマは「都市の祝祭」。同日夜には建畠晢(あいちトリエンナーレ2010芸術監督)、水沢勉(横浜トリエンナーレ総合ディレクター)、北川フラム(越後妻有アートトリエンナーレ総合ディレクター)の3氏によるシンポジウムが開催された。残念ながら入院の付添で聞くことはできなかったが、プレス発表を読む限りでは想定の範囲内で粛々と進められているようだ。

100年余の歴史をもちアートのオリンピックといわれるヴェネツィア・ビエンナーレは別格として、国際展は世界各都市、なかでも経済的発展著しい上海や光洲、シンガポールなどアジアの各都市で競って開催されるなど、アートは国の威信をかけたワールドカップの様相を呈してきた。当然のように国内でも政府主導の横浜トリエンナーレ、地域とアーティストが協働する越後妻有アートトリエンナーレを双璧に、昨年は神戸ビエンナーレが話題を呼ぶなど負けていない。アートの島として注目を集めている瀬戸内でも大規模な国際展が計画されていると聞いている。

愛知で国際芸術祭という構想は、愛・地球博の遺産を生かした持続可能な地域活性化策「ポスト万博」のシンボル事業として計画されたもので、生き残りをかけてしのぎを削る国際展に国内最大級の国際展をウリに名乗りを上げたが、心配がないわけではない。先の万博で中枢を中央のエージェントが握って地元が下請けになった構図が今回も透けて見えるからだ。本来であれば万博の遺産は「知」として地元に蓄積されるはずだが、国内最大級の国際展が知る人ぞ知る域を出ていないのはどうしたものか。構造的な問題がどこかにあるのではないか。

あいちトリエンナーレ2010の問題点を構想の当初から真摯に取り組んでいるのが、地元の芸術批評誌【リア】で、なかでも井上昇治氏のリポートはジャーナリストの真骨頂を目の当たりにするような読後感で気持ちがいい。批判のための批判、批評のための批評ではなく、地元への限りない公正な愛着に裏打ちされているからで、こうしたジャーナリストが愛知にいること、全国に芸術の魅力を発信する良心的な同人誌が愛知で発刊されていることを、私は県人の一人として感謝すると同時に誇りに思いたい。

あいちトリエンナーレ2010の正確な情報はホームページの検索を。
一緒に考えたい方は芸術批評誌【リア】の買い求めを。



芸術批評誌【リア】は、毎号特集で、難解なアートの現在を市民目線と平易な言葉でわかりやすく編集している全国でもトップレベルの同人誌で必見。豊田市美術館でも取り扱っています。
発行はリア制作室/〒460-0002名古屋市中区丸の内3-20-5-201☎080-3616-4547
  


Posted by かとうさとる at 00:43 | Comments(0) | アートの現在

2008年10月17日

遅まきながらブログデビュー

遅まきながらブログデビューした。予てから「いけばながどこから来て、いまどこにいて、どこに行こうとしているのか」、私なりに「史」として整理したいと考えてきた。できれば一人でも多くの人に「いけばなの現在」を知ってほしいとも考えてきた。そんなこともあって、『いけばなから』のタイトルでプライベート通信を発行したこともあった。

当時、すでにインターネットの時代がきていたが、「紙」(印刷物)に対するこだわりから電子新聞は禁じ手と自分を戒めてきた。そんな矜持も利便性という誘惑には勝てず、遂に陥落してしまった。当初はホームページで、と考えていたが、たまたま行きつけの山路のカウンターで同席した広告制作会社の井上さんに相談したところ、「かとうさんが考えている内容であればブログで十分」とのことで、その場でブログの設定を依頼した。

自分は計画性があるようでないため、来週に迫った「花と書の空間展」の案内もしていない。10数年前から考えていたプランがやっと日の目を見るというのに、サイテイ。そんなわけでブログデビューも知らせていない。変なところで自慢しても始まらないが、気分転換に自分のブログの再編集をしていて気がついたことがある。読んでいても何か面白くない。そんなときNHKのプロフェッショナルをテレビ桟敷で見た。

ゲストは落語家の柳家小三冶で、番組の中で小三冶は、師の言葉で苦しみぬいたが苦しんだことでいまの自分があると、しみじみ話した。小三冶の師匠は人間国宝の柳家小三で、初めて小三冶の稽古をつけた小三は「お前の噺は面白くねえ」と一言言って部屋を出ていってしまったそうだ。「冗談であれば救いもあるが、憮然とした顔で面白くねえと言われたんじゃ落語家失格と言われたようなもの」と小三冶。言外に「落語は頭でするもんじゃねえ」と諭した小三。小三冶の立場を自分に置き換えてみるとその言葉の意味がよくわかる。ブログが面白くないのも自明の理だが、「ごあいさつ」の中でも述べたように生来の癖は直しようがない。ご容赦を。



  


Posted by かとうさとる at 05:15 | Comments(0) | らくがき帖

2008年10月16日

私の生まれ住んでいるこのまちから発信します



豊田市の中心市街地を蛇行する矢作川と豊田スタジアム


ごあいさつ

今から100年ほど前、ロンドンで霧の画家として名声を博した豊田市出身の画家牧野義雄(1869-1956)は、著書の中でふるさとの情景を次のように書いています。


ロンドンで霧の画家として名声を博した牧野義雄


《私の生まれ故郷は、日本の擧母です。三河地方のそれはそれは小さな山間の村です。それで、あたりの景色はとても美しいのに、擧母を通りかかる旅人にしても草鞋を脱ごうとしません。魅力的な景勝の地にこと欠かない日本では、私の故郷などものの数にも入りません。それでも、もし仮に、英国か米国に擧母が置かれていると仮定してみましょう。美しい擧母の景色ゆえに、きっと有名になったはずです。何といっても自分の生まれ故郷です。それだけで私は私なりに、擧母を誇りに思っております。擧母は三河の国の北東部に位置しております。三河とは読んで字のごく「三つの川」の意味で、この地方には三大河川があります。その中の一つ、矢作川が、谷間をめぐって流れています。曲りくねる流れはまるで弓の弦みたいですが、私の村は、ちょうど弦の外側に位置しています。村から北の方角を見ますと、10マイルほどの距離に猿投山が裾野を広げ、裾野の最先端は擧母村まで迫っております。東の方に目を転じますと、矢作川の川向こうに、遠く近くの山々が重なりあいまして、上手にしつらえた屏風のような格好です。南と西の方角には、約20マイル離れた海岸まで、丘陵の斜面が下っています。》

牧野義雄が「私の生まれ故郷です」と、誇らしげに記した日本の擧母、現在の豊田市は工業都市のイメージが先行していますが、いまも水稲栽培や果樹栽培が盛んなのどかな田舎まちです。少し北に行くと昭和の本阿弥光悦と称えられた藤井達吉がひらいた和紙の里として知られる小原や、紅葉の名勝として知られる香嵐渓があり、まもなく四季桜や紅葉が見ごろになります。


二階の池から見た豊田市美術館(谷口吉生設計)


牧野義雄「ピカデリー・サーカスの夜景」1907年(豊田市美術館所蔵)


美術館もお薦めです。七つの国が見えることから七州台と名付けられた市街地を一望できる高台にあり、少し古典的ですが、シーレ、メルツ、キィファー、斎藤義重など私の好きな作品が所蔵され、もちろん牧野義雄の「ピカデリー・サーカスの夜景」もあります。レストランからは中央アルプスの山並みも一望できます。一度お出かけになりませんか。きっと気にいっていただけるものと思います。

いけばな文化研究所は私の生まれ住んでいるこのまちから発信します。

いけばなの同時代性を「史」として研究するとともに、実作者として「いけばなの現在と領域」を少しでも確かなものにしたいと考えていますが、スタートラインについたばかりです。ブレや逸脱は私の生来の癖で直りそうもありません。ご容赦いただきご教示なりとも賜れば幸いです。

かとうさとる(かとうさとるいけばな文化研究所主宰)
1944年豊田市に生まれる。国内最大規模の市民野外劇の制作、多様な文化芸術活動の企画運営や書籍の編集に関わるなど、文化による地域づくりのアートマネージャーとして活動。また70年代半ばより全国展開した現代いけばな運動に参画。国内外で個展を重ね現在に至っている。(元豊田市文化振興財団文化部長)
  


Posted by かとうさとる at 00:30 | Comments(0) | いけばなから

2008年10月14日

作品ライブラリー(7)ムシロフェンス









素材:ムシロ、玉石、ロープ/スペース:≒1200㌢×800㌢/
場所:豊田市民文化会館(豊田)1983年


天井の窓が開いた

この作品は、作品ライブラリー6でとりあげた「ヨリシロ」と同じ個展で発表したもので、タイトルの「ムシロフェンス」は、憧れていたクリストのランニングフェンスから想を得たもの、というよりもクリストに対する畏敬の気持ちを表したもの。後にクリスト展の企画に関わり、名古屋駅にクリスト夫妻を迎えたが、私にとって新幹線から降りてきたクリストは、洛陽の都で杜子春が見た夢の世界で、未だに信じることができない。

信じることができない、と言えば、この作品の誕生そのものも偶然の賜物で、できあがった空間を見て一番驚いたのが私自身だった。後にインスタレーションという言葉を知ったが、壁面を背にした手法しかない私にとって600平方メートル近い無限の空間は象に挑む蟻のようなもの。無謀な企てと悔いたが後の祭りで、そんなときに閃いたのが身近にあったムシロだった。

出来上がったムシロフェンスを前にした大人はみんな不思議そうな顔をして首をかしげ、子供たちは遊園地で遊ぶようにムシロフェンスの下を潜り抜けて走りまわっていた。「作品を分けてほしい」という人まで現れた。「やった」と内心小躍りした。事情を聞くと「畑の霜よけにしたい」とのことで、最後にオチがついてしまったが、私にとってムシロフェンスは青天の霹靂で、天井の窓がこのとき開いた。



サイドから見たムシロフェンス

  


Posted by かとうさとる at 13:02 | Comments(0) | 作品ライブラリー

2008年10月10日

作品ライブラリー(6)ヨリシロ








 

素材:白塗した松/器:信楽大壺/寸法:≒200㌢×200㌢×300㌢/
場所:豊田市民文化会館(豊田)1983年




私の花の始まり

いけばな史にエポックをしるした「いけばなEXPO81とよた」での私の作品について、異端のいけばな作家西村菁洋は、後に雑誌「花道」に「理念の華かとうさとる」と題して、《私には理解不能の造形だった。所属する流派も一度聞いたが忘れてしまう程度のモノである。どうやら理論が先行し、実体の伴わない作家さんだろう、というのが、このときの偽らない認識だった。》と手厳しく書いた。西村菁洋に指摘されるまでもなく、一番落ち込んだのは私自身で、83年から始めた個展シリーズ「手さぐりの中から」は、この反省をバネにしたもの。
 
「ヨリシロ」と題した作品は、この個展で発表したもので、最初は壺の中に白塗りの聖なる松を立てた。いけばなは植物と器が一体になるものと決めていたからだ。何度試みても納得できないため、壺を逆さに設置し、間合いを計って松を立てた。「やった」と思った。いけばなは関係で成立することにこのとき初めて気がついた。「私の花」の始まりである。

  


Posted by かとうさとる at 02:18 | Comments(0) | 作品ライブラリー

2008年10月07日

テレビ桟敷で横浜トリエンナーレを見た

10月5日(日)
 
前夜は入院の付添いのため、病院のベッドの横で添い寝。会話は少なかったが、身の回りのことについて妻と初めて会話をしたような気がした。
 
夜、パソコンに向かいながら新日曜美術館の横浜トリエンナーレの特集を見た。前2回はヴェネチアやカッセルを意識した日本発の世界展という触れ込みが強く、他人の家のような居心地の悪さを感じたが、テレビ桟敷で見る限りでは、いたずらに新しさを競うのではなく、ようやく横浜トリエンナーレの立ち位置が決まったように見えた。圧巻は勅使河原三郎のパフォーマンスと原三渓が築いた三渓園の作品。港未来のメイン会場とは別に三渓園など横浜の地の利を生かした展開は、大地の芸術祭や都市を劇場にしたアートプロジェクトに見られる昨今の流れの一つになっているが、アメリカのサブプライムローンに端を発して金融資本主義が崩壊に向かっているように、行き着く先は美術の解体と再構築で明白。こうしたアートの現場に美術館サイドの生の声が聞こえてこないのは不思議でならない。
 
余談に逸れたが、園内の古刹から「雨月物語」の想を得たという「霧」のインスタレーションの幻想的な美しさは白眉。残念ながら作家の名前は失念したが、渓から林間を漂うように流れて古刹に向う霧の通り道は過去と現在と未来をつなぐ回廊のようにも見えた。絶句したのが茶室の空間に一本のビニールの紐を垂らした内藤礼のインスタレーション。畳に置かれた小さな電熱器の対流と自然の風で生き物ように不規則にたなびくビニールの紐。最小の単位で空間を完全に支配した内藤礼に脱帽。
 
自分も「花と書の空間展」で茶室のインスタレーションを予定しているが、張りぼてにしかずで、一気に気力が萎えてしまった。自分のことはさておき、芭蕉の不易流行という言葉を思い出した。会期はまだ十分にある。この目でみなければ。




  


Posted by かとうさとる at 03:29 | Comments(0) | アートの現在

2008年10月07日

丹羽晧夫作品集



愛知教育大学名誉教授の丹羽晧夫さんは、美術教育のエキスパートとして、また春陽会会員として活躍するなど、愛知を代表る美術家の一人として知られている。本書は豊田芸術選奨受賞記念展の開催にあわせて丹羽晧夫さんの画業と膨大な業績を一書に編纂したもの。

今だから明かせるが、当時丹羽晧夫さんは癌が脳に転位し本書を見ることは難しいと言われていたが、本書の編纂作業を通して奇跡的に回復。主治医も医学的に説明できないと驚いていたそうです。

写真は作品集の表紙を飾った「イカルスの墜落」1998年

発行:丹羽晧夫作品集編集委員会
規格:B4変形上製本184頁
編集:かとうさとる
デザイン:かとうさとる
デザイン監修:村越昭彦・北沢洋二
印刷製本:凸版印刷㈱  


Posted by かとうさとる at 01:53 | Comments(0) | 編集出版

2008年10月05日

作品ライブラリー(5)和紙と木彫・陶と華四人展









素材:枯松、竹、塗料/寸法:≒400㌢×150㌢×250㌢/
豊田市民文化会館(豊田)1982年



無限の空間に向け、羽化がはじまった

この作品は1982年、和紙と木彫・陶と華四人展に発表したもの。メンバーは小原和紙の小川喜数さん(日展会員)、木彫の石川豊さん(二科会)、猿投窯の山田和俊さん、私(かとうさとる)の四人。小川先生、石川豊さんの二人は故人となってしまったが、私がいけばなを始めた頃すでに大家として活躍。また山田和俊さんは猿投古窯を再興した陶芸家で、普通であれば臆するところだが、尊敬する人たちと同じ土俵に立てる喜びに心が躍ったのを覚えている。

この年、器を離れた私の「花」が壁面からも離れて、無限の空間に向け、羽化がはじまった。



第1回四人展(1980年)で全員集合。左から木彫の石川豊さん(二科会)
小原和紙の小川喜数さん(日展会員)、猿投窯の山田和俊さん、私(かとうさとる)の四人


  


Posted by かとうさとる at 22:07 | Comments(0) | 作品ライブラリー

2008年10月04日

作品ライブラリー(4)無心でいける









素材:どうだんつつじ、枯れ木、松/花器:瀬戸焼き・鉄スタンド
場所:豊田市民文化会館「華道豊展」(豊田)1982年


錦秋

私は、花・かとうさとる作品集の「私の花」に12点の作品を選んだ。選外となった中に最後まで迷った作品が4点あった。1点はこのブログの最初に取り上げた個展の作品で、2点目がこの「錦秋」と題した作品だった。選択の基準は空間の支配力をもとに判断したが、結果として作品の連続性を無視した選択になったのではないか、といまでも迷っている。


  


Posted by かとうさとる at 03:47 | Comments(0) | 作品ライブラリー

2008年10月03日

作品ライブラリー(3)華道豊展









素材:蓮の葉、アクリル、ロープ/花器:山田和俊(猿投窯)
寸法:≒90㌢×90㌢×300㌢/場所:豊田市民文化会館(豊田)1981年


浮遊

豊田市のいけばな展を代表する華道豊展は、1973年豊田市民総合文化祭の発足にあたり、それまでの諸流いけばな展を発展的に解消し、オープニング行事としてリニューアルしたもので、ネーミングの「豊展」は脱いけばな展を意味している。

この作品は1981年の華道豊展に出品したもので、「浮遊」のタイトルで作品集に収録した。(作品集では1982年となっているが1981年の誤りで訂正)

  


Posted by かとうさとる at 22:54 | Comments(0) | 作品ライブラリー

2008年10月03日

澁谷朗-人と仕事-とよたの保健医療福祉と市民文化




市民が楽しく読める医療・文化の豊田現代史
 
澁谷朗氏は、豊田市の保健医療福祉の発展に大きな足跡をしるし、平成9年度日本医師会最高優功賞を受賞。平成17年秋の叙勲では旭日雙光章を受章し、皇居において天皇陛下に拝謁の栄を浴した。また文化協会会長、文化振興財団理事長として、二度にわたる国内最大規模の市民野外劇を成功に導くなど、豊田市の医療と文化の振興と発展に大きな足跡をしるした最大の功労者です。
 
本書は、澁谷朗氏の歩みを縦軸に、とよたの保健医療福祉と市民文化を「史」として編纂したもので、メディアは市民が楽しく読める医療・文化の「豊田現代史」が初めて誕生したと報じた。

第1章 澁谷家のこと
第2章 保健医療福祉
第3章 市民文化
第4章 メーキング市民野外劇(写真下)
資料編 保健医療福祉と市民文化関連年表
発行:澁谷朗-人と仕事-監修委員会
規格:A4版上製本208頁
編集執筆:かとうさとる
デザイン:かとうさとる・凸版コミュニケーションズ
印刷:凸版印刷㈱ 






  


Posted by かとうさとる at 14:21 | Comments(0) | 編集出版

2008年10月03日

作品ライブラリー(2)空間の意識が芽生える









素材:発砲スチロール、塗料、真鍮、カトレア/寸法:≒400㌢×250㌢
場所:豊田市文化芸術センター(豊田)1979年


試行を繰り返す

1979年私は2度目の個展をした。その個展で発表した作品の一つがこのレリーフだ。装飾的な作品でこれまで机の引き出しにしまっていたが29年ぶりに封印を解いた。いま思うと、こうした試行が繰り返されて、私の中でいつとはなしに空間という認識が形成されていったようだ。

  


Posted by かとうさとる at 04:23 | Comments(0) | 作品ライブラリー

2008年10月01日

ライバルはボルタンスキー


東京を中心にいけばなの第一線で活躍する作家集団「Fの会」は、第4回大地の芸術祭の取組について、前回の集落全体を美術館にした小白倉いけばな美術館から、空家をアートで再生する空家プロジェクトに変わったことを受けて、協議を重ねてきた。


「Fの会」の集合写真
同人は、宇田川理翁(東京)、大塚理司(東京)、大坪光泉(北京在住)
大吉昌山(東京)、粕谷明弘(東京)、かとうさとる(愛知)、小泉道生(神奈川)
下田尚利(東京)、千羽理芳(東京)、長井理一(東京)、早川尚洞(東京)
日向洋一(神奈川)、吉村隆(東京)の13名。(五十音)


当初は大地の芸術祭のステージとステータスがいけばなの発信と活性化に大きな力となるため、次代を担う清新な作家を巻き込んだパワフルな祝祭を目論んできたが
①建物一軒のみでスペースが限られていること
②次代を担う清新な作家に門戸を開く公募を採択するには準備時間がないこと(越後妻有「大地の祭り」の課題として持ち越し)など現実的な判断を優先。
①前回との差異を明確にすること
②切り口を凝縮して発信すること
が、いけばなの新たな可能性を拓くのではないか、との結論に至り、いけばなグループ「Fの会」の単独参加に決まった。
 
当然のように「Fの会」には厳しい意見と高いハードルが課せられるが、ライバルは前回旧東川小学校の歴史と記憶を衝撃的なインスタレーションで蘇らせたボルタンスキー。民俗から出発した最も古いメディアのいけばなが、世界のトップアーティストに挑む。そのくらいの覚悟でないといけばなにも、大地の芸術祭にも失礼だ。



「Fの会」が主催した横浜新都市ホールの現代いけばな展
アートのライブハウスのような猥雑さは摩訶不思議で説明不可


  


Posted by かとうさとる at 11:39 | Comments(0) | 大地の芸術祭「蓬平いけばなの家」