2008年12月01日

風土記 尾張と三河の二国を分ける猿投山




冬支度をはじめた果樹園と猿投山


冬近し

正面に見える山を猿投山(さなげやま)といい、尾張と三河の二国を分け、古くから霊山として崇められてきた。山の西南麓一帯は奈良時代から鎌倉時代のはじめにかけて、千基を超す窯が焚かれたという猿投古窯址群が分布。山の北側は瀬戸の赤津から美濃につらなり、日本の焼き物はこの山を抜きにして語ることはできない。

現在、南の斜面一帯は果樹栽培が盛んで、特に桃は「猿投の桃」として東京方面に出荷され、亡くなった北條明直先生は「御地の桃は地元の山梨より美味」と絶賛。春になると桃と梨と桜と躑躅が重なるように咲き乱れ、晩秋の「あたご」(巨大な梨)まで、農家は手の休まることがない。

私の住んでいる保見は写真の左の山裾から数キロ西で、動物でいえばこのあたりは私の縄張りということになる。そんなわけで桃や李の花が咲くころになると鋏をもって猪のように徘徊。桃名人の林金吾さんは「かとうさん、あっちの木(花桃)はいくら切ってもいいけど、こっちはダメだよ」と心得たもの。今日も柿の紅葉が残っていればと、車を進めてきたが、果樹園はすでに冬仕度で、私の居場所はどこを探してもない。

作家で精神科医の加賀乙彦は人生の晩年を「夕映え」に譬え、堺屋太一は定年後の10年を「黄金の十年」と書いた。私はそのただ中にいるが、「夕映え」も「黄金の十年」も、走り切った人に与えられるご褒美のようなもので、キリギリスの自分には関係がない。

結末はわかっていてもこの道をいくしかない。



林金吾さんの畑で伐らせてもらった花桃を民芸館の広間に活ける(豊田市民芸館)1995年
  


Posted by かとうさとる at 00:15 | Comments(0) | とよた風土記