2009年12月08日
今頃気が付いているようでは遅いが
命日は志の引き継で死亡記念日ではない
6日の日曜日、親父の7回忌と祖母の33回忌の法要で、檀家寺(土橋の法雲寺)の住職が面白い話をした。法然上人は死に際して弟子にお墓は不要と諭し、法弟子の親鸞上人はさらに過激で、「賀茂川に散骨してもいい」と諭したそうだ。
つまり、死は単なる肉体の消滅に過ぎず、二人の生命(思想)は永遠に生き続けているということを言外に諭したもので、まさに強烈なリアリズムに目から鱗。このあと住職は、「命日というのは親から子へ、子から孫へ志として生き続けるもので、死亡記念日ではない」と結んだ。

法要が済んだあと、夜の演劇まで時間があるため、近場の初冬を探しに車を走らせた。写真は廃線になった名鉄三河線の鉄橋。「もの」は消滅するときノスタルジーという共感に代わる。
白状すれば、私は法事でもない限り、両親のお墓に足を運んだことがない。その法事も連絡がない限り気にかけたこともない。矛盾するが、そのことをいつも心のどこかで気にかけてきた。世法即仏法を方便に使うのは余りにも調子がいいが、住職の話を聞いて、少し救われた気がした。

私が密かに南天街道とよんでいる旧足助町の県道脇の南天。
グリーファーム(栗園)の土止めとして植えられたもので、全山南天に染まる。
本題は、その夜見た地元の劇団の
創立10周年記念「夏の夜の夢」のことである
話が抹香くさくなって恐縮だが、本題は、その夜見た地元の劇団の創立10周年記念「夏の夜の夢」のことである。内容はシェクスピアの代表作で説明不要のため省くが、数十年にわたって当地の演劇活動を牽引してきたベテランが裏に回り、満を持しての挑戦で、関係者の意気込みがひしひしと伝わってきた。ところが私の中で響かない。なぜ響かないのか。舞台の半分ぐらいはそんな自分と自問自答を繰り返した。

南天はガジュマルの幹のように野生化して、私など鋏を抑えるのに必死。(コラ!花泥棒)
今頃気が付いているようでは遅いが
あわてない、あわてない
答えは意外なところにあった。私がいけばなを通して求めているのは、生きる証しとしてのリアリズム(同時代性)で、私が演劇を見たり、いろんな「こと」に進んで関わるのは、その手がかりを求めているからに他ならない、ということに思い至った。
住職の話に響いたのも、「今に生きるリアリズム」で、前述した演劇が響かなかったのも同じ理由。自分はリアリストと、今頃気が付いているようでは遅いが、千里の道も一歩から、あわてない、あわてない。