2009年06月18日
とよたの産業遺産-百善土場
矢作川と水運
長野県の大川入山に端を発して、長野、岐阜、愛知の3県を流れる母なる川、矢作川。この矢作川が水上輸送路として使われるようになったのは、文献によると、江戸時代初期の承応2年(1653年)、信州根羽村桧原山の木材を根羽川を経由して矢作川本流へ川狩したのが始まりとされている。
100石から200石の木材を川に流し、木材の端の前後をベテランの筏師が鳶口で捌きながら流していく川狩のほか、木材を1本ずつバラバラに流す管流し、筏に組んで流す筏流しがあった。こうした風物詩もトラックなどの郵送手段の発達やダムの建設で姿を消したが、川辺に立ち目を閉じると木材が流れていく光景が浮かんでくるようだ。

矢作川を下る筏(大正11年)豊田・加茂の100年(郷土出版社)より転載

百々の貯木場(大正後記)豊田・加茂の100年(郷土出版社)より転載

集積された木材(百善土場|大正7年頃)豊田・加茂の100年(郷土出版社)より転載。水門から取り入れた木材は、ここで大きな筏に組み直し、河口の平坂(西尾市)さらには知多半島まで運ばれていった。

作業風景(大正中期以降)豊田・加茂の100年(郷土出版社)より転載
夏草に覆われた百善土場

水門の向こうに矢作川が流れているが、河床が4~5メートル近く下がっているのがわかる。ダムにより土砂が流れなくなったためで、各地の海浜が年々痩せていく原因の一つがダムにあるのは明白。

夏草に覆われた百善土場
Posted by かとうさとる at 03:44 | Comments(0) | とよた風土記