2012年01月13日
お釣り土場で藪椿の定点観察
その前に安物買いの銭失い
あっても役に立たないものを盲腸に例えることがあるが
人間の器官は使わないと退化するようだ
いい例がパソコンを使うようになって漢字が書けなくなったり
携帯の普及で電話番号など数字が覚えられなくなったりしたことは
誰もが経験しているはず
同じようにナビの普及で方向音痴が増えたと思うのは
私一人ではないと思うがどうか
そんなナビ嫌いの私が通販でナビを買った(配達料別で約30,000円)
早速車に取り付けて試しに近場を走ってみた
何かハイクラスの車に乗っているような優越感に笑ってしまうが
初めてということは何でもこんなもの
まあ、そんなことはどうでもいいが
1999年に出来た豊田大橋が載っていない
当然のように豊田スタジアムも出来ていない(いつの地図だ!)
テレビも見ることができると宣伝していたが
ガイドブックを読むとオプションで別売りとのこと
文句を言おうと保証書を探したがゴミに出したあとでアウト
後の祭りでどうしようもないが
一事が万事でイヤになってしまう
気分はブルーだが
お釣り土場で藪椿の定点観察
市内の中心部から足助方面に向かって5キロほど車で走ると
矢作川に架かる平戸橋に着く
この橋の上流部一帯は勘八峡とよばれ
1927年(昭和2年)に制定された愛知県新十名勝に選ばれるなど
県下でも有数の景勝地として親しまれている
お釣り土場はこの平戸橋の下流右岸
写真の竹藪のあたりから籠川合流点までの愛称で
上流部の民芸館や前田公園、越戸ダム、枝下用水などと併せて
このあたりは文化資源(観光資源)の露天掘りをするようなもの
お釣り土場の名の由来は定かではないが、ワンドやザラ瀬が続き
少しでも釣りをしたことのある人間なら理解いただけるのではないか
春を待つ鮎釣り舟
お釣り土場の発見其の一
河岸林と藪椿の群生
私が秘かに春の定点観測木と決めている藪椿の群生
まだ蕾も堅く見ごろは例年並みの二月中旬から下旬頃になるのでは
野鳥の鳴き声と瀬の水音のシンフォニーが奏でる静けさは
ここが市中心部から数キロの場所とは思えない
このイラストは私が「平戸橋いこいの広場」の所長をしていた当時
提案したお釣り土場「椿の小径」のイメージ(作画は吉田稔さん)
在任期間が定年後の2年と短かったため
十分なプレゼンができないまま
立ち消えになってしまったのは残念
お釣り土場の発見其のニ
お釣り土場恐るべし
越戸土場は矢作川右岸の最上流に位置する土場で
ここで荷揚げされた海産物は岩村道を通って
遠くは東濃地方まで運ばれて行った
逆に女城主で知られる岩村藩には年貢米を
松平氏が木曽川の兼山湊に替えるまで
岩村道を利用して陸路12里(約48キロ)を運び
越戸土場から平坂湊を経て江戸に運んだと言う記録が残っている
時代を経て明治・大正に活躍した岩村出身の歌人で
実践女子学園の創始者下村歌子は
明治4年4月8日父のあとを追って上京。三国山の麓で
「綾錦着て帰へらずば三国山またふたたびは越えじとぞ思ふ」の
一首を詠み、挙母から岡崎を経て東京に向かったというから
もしかしたら下村歌子もこの土場から舟に乗ったかもしれない
何気なく立っている石柱がそんな物語を見てきたと思うと
お釣り土場恐るべし
対岸の上流部には矢作川最上流部の彦宗土場があり
荷揚げされた物流は足助を経て遠く信州に運ばれて行った
写真は彦宗土場の賑わいを描いた古井彦宗家の襖絵
(渋谷朗-人と仕事-「とよたの保健医療福祉と市民文化」より転載)
余談に逸れたが
越戸土場のあった辺りは対岸と渡し舟で結ばれていたが
交通機関の発達と管理上の問題から廃止
代わって昭和26年に同じ場所に流れ橋が竣工
この流れ橋も昭和34年の伊勢湾台風で流失
川の中央から対岸に見える遺構は流失した橋脚の一部
イラストはこの流れ橋を「吊り橋」として復元することで
対岸の文化資源と一体になった「水辺自然公園」が
生まれるとの構想で提案したもの
「椿の小径」と同様に私の力不足から
絵に描いた餅になってしまったが残念
対岸の古鼠水辺公園
絶好の寒ハエポイントだが釣り人がいない
近年川は危険なものというイメージが先行して
子どもが遊ばなくなった(遊ばせない)のは
大人の責任回避で間違っているのではないか
上流の岐阜県境で伐採された材木の多くは
管流とよばれる方法で矢作川に放たれた
こうした材木の集積地として繁栄したのが対岸の百善土場で
写真は「目で見る豊田加茂の100年」から転載した
大正7年頃の百善土場の賑わい
現在百善土場は近代の産業遺産として整備され
カキツバタの咲く頃がお薦め
Posted by かとうさとる at 00:17 | Comments(0) | とよた風土記