2012年09月25日
農村舞台2012/稲武で小さな旅Ⅰ 武節城址
農村舞台アートフェスの
楽しみは地域を巡る小さな旅

マップでわかるように稲武は岐阜県と長野県に接する県境に位置し
県内の区分でいうと元は北設楽郡稲武町で奥三河文化圏の一つ
もう少し変遷を記すと
1940年 稲橋村と武節村が合併して稲武町に
2003年 東賀茂郡に移行(東三河から西三河に移行)
2005年 豊田市と合併現在に至る

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先ず武節城址を尋ねてみよう

稲武の玄関「道の駅」の東の斜面に武節城址の看板が見えるが
道行く人は余り興味がないのか城址にハンドルを切る人は少ない
武節城址はトンネルの手前の道を左折
道なりに進んで行くと本丸跡の広場に出る

武節城址の文字は稲武出身で妙心寺管長を歴任するなど
昭和を代表する禅僧山田無文師によるものとのこと

説明文を要約すると
武節城は永正年間に北設楽郡の田峯城主菅沼定信によって築城
信州と美濃の国境に接することから情報の最前線基地として
武田、徳川の狭間でたびたび戦乱に巻き込まれた

兵どもが夢のあと武節城址本丸跡
城址は二の丸、三の丸と階段状に下がり
周囲には十数カ所の曲輪の跡ががあり
500年前の空堀が当時の名残をとどめている

武節城址から見た武節の町並み
元亀2年(1571)4月、武田信玄は本格的な三河侵攻を開始
2万5千の大軍を率いて飯田から南下
袖路峠を越えて城下に迫り
武節城は戦わずして武田の軍門に下った
小さな城の宿命で哀れ
信玄はその足で足助城を落とし
下山から作手へ登り亀山城を落とし
新城に降り野田城を攻め
吉田城を脅かして甲州へ帰ったというから
信玄は私が作品を展示している小田木八幡神社の前を
通って足助に向かったはず
武節城址の説明に「武田勝頼ゆかりの」とあるのは
天正3年(1575)5月21日
長篠の戦に敗れた武田勝頼は段戸山を越えて
武節城にたどり着き
一泊して信州諏訪へ逃れたという伝承によるもの

野入りから地蔵峠へ
飯田から袖路峠を越えて野入の地蔵峠を越えると武節城は眼下
風林火山の旗印を立ててこんな峠をいくつも越えなければ
次に進めない武田軍は地の利がなく
上洛を果たせなかったのもむべなるかなで
信玄も悲運
紅葉の名勝
大井平公園もお薦め

豊田の紅葉前線がスタートする大井平公園は
幕末から維新の歴史資料の宝庫「古橋懐古館」で畏敬する
篤志家古橋家が造成した自然公園

名倉川の清流に紅葉が映えるのはまだ先
Posted by かとうさとる at 13:19 | Comments(0) | 農村舞台