2010年02月25日
明川熊野神社の農村舞台探訪
足助と稲武の中間に
明川という宿駅があった
「中馬のおひなさま」で賑わう足助の町から武節(稲武)まで、塩の道として親しまれてきた中馬街道(現在の国道153号線)で約40キロ。その中間にあるのが明川という集落で、往時は中馬の宿駅の一つに数えられていたそうだ。

明川の塩の道と往時を偲ぶ常夜灯
中馬は、信州でつくられた馬の背で荷物を運ぶ人々の組合のことで、語源は賃馬・中継馬に由来。当時最も重要な物資は塩で、足助で荷直しされた塩は、中馬の背に積まれて信州に運ばれた。街道の要所々には旅の安全と馬の供養を祈って馬頭観音が祀られ、今も道往く人を見守っている。

お祖母さんの代まで、明川で旅籠屋を営んでいたという酒井さんのお宅。塩の道は酒井さんの前を流れる阿摺川にそって北上。酒井さんがお嫁にきたときは既に中馬はトラックに代わり、旅籠は廃業していたそうだ。
この明川に
嘉永5年(1852年)の棟札の残る
農村舞台があると聞いて
車を走らせた。

農村舞台の建つ明川熊野神社の鳥居
農村舞台は絶滅危惧種
奥三河の春を告げる花祭りで知られる愛知県三河山間部は芸能の宝庫といわれている。こうした神事や芸能が演じられた舞台を一般に農村舞台と呼んでいる。市内にも多くの農村舞台が現存。八木哲也市議会議長の最近の調査によると79棟を数えるそうだ。
豊年を祈願する春祭り、実りの秋を祝う秋祭に、神事の余興行事として催される農村演芸(注釈参照)の場として、神社境内に舞台が建てられ始めたのは江戸時代も後半になった頃と言われている。中には文化5年(1808年)に建てられた中金町の岩倉神社のように、回り舞台のある本格的な舞台もあるが、そのほとんどが廃絶の危機に瀕している。
近年、こうした農山村の共同体の精神的支柱となった農村舞台を見直す機運が高まり、既に八木哲也さんを中心に有志による勉強会が始まっている。今回私が明川に足を運んだのも、この目で現代における農村舞台の可能性を探るためで、暇な私には格好の宿題で感謝。
明川の農村舞台の全景

明川熊野神社の農村舞台「明川座」の全景

背景の窓は「透見」

巨樹に囲まれた熊野神社境内
明川の農村舞台は一級の文化遺産
明川の農村舞台が建てられたのは嘉永5年(1852年)。間口約
16.00m、奥行き7.30m。旧足助町最大の規模で、左右に太夫座が設けられ、背景の自然を芝居の写景として取り込む「透見の窓」、奈落のスペースも十分。境内の環境とあわせて、私がこれまで見た農村舞台の中ではトップクラス。
この舞台は、中馬街道の宿駅として栄えたという明川の往時を偲ぶ貴重な文化遺産であると同時に、現代のアートハウスとしても斬新なもので、この先、どんな農村舞台に出会えるのか楽しみになってきた。
(注釈)
農村舞台で演じられた奉納芝居には、村人が役者をつとめる村芝居と、旅回りの役者を呼んで開く、買芝居の二つがあった。一般に農村歌舞伎とよばれているのは、村芝居の発展したもので、上演を重ねるうちに、村々の名物や出し物に特色が加わり、一つの座を形づくったもの。市内でも小原歌舞伎や旭歌舞伎、石野歌舞伎などが往時の形を今に伝えている。