2010年02月15日

とよた美術展2010から見えたもの













35都道府県から
清新な作家470人が応募



いま、豊田市美術館で「とよた美術展2010」が開催されている。この美術展は、市制発足以来市民に親しまれてきた豊田美術展が50回になるのを機に、トリエンナーレ方式の全国公募にリニューアルしたもので、3回目をむかえた。

今回は、北は宮城から南は沖縄まで35都道府県から470人の応募があり、一次審査、二次審査を経て、入選作品56点が展示されている。入選率は1割強と狭き門。質も高く、展示方法も企画展同等以上の贅沢なレイアウトで見応え十分。





一次審査【書類審査】
小西信之(愛知県立芸術大学准教授)
高橋綾子(名古屋芸術大学准教授)
天野一夫(豊田市美術館チーフキューレター)

二次審査【作品審査】
北澤憲昭(女子美術大学教授)
草薙奈津子(平塚市美術館長)
建畠晢(国立国際美術館長)
牧野研一郎(愛知県美術館長)
吉田俊英(豊田市美術館長)



入賞作品を探すのが難しいほど
高いレベルで作品が拮抗



撮影不可のため、本展の概観を説明するのは難しいが、前述したように作品本位のゆったりとしたレイアウトと相まって、会場を爽やかな風が吹き抜けていくような、気持ちのいい展覧会というのが第一印象。

次に感じたのは、「残念ながらこれぞグランプリと審査員の意見が一致する作品は見い出せなかったが、準大賞が3点選ばれたように全体のレベルは高く、また尖鋭的な表現が揃ってもいた。」という審査講評に象徴されるように、1点1点キャプションを確認しないと、入賞作品を探すのが難しいほど、作品が拮抗していたことで、大賞なしも納得。


見えてきた
とよた美術展の役割と意義



それではなぜ大賞作品が出なかったのか。これは第1回からの作品傾向を見ての推測だが、バランスのいい審査員構成、豊田市美術館というステータスに惹かれて、同時代性のアートを追求するオーソドックスな作家が大挙して応募しているためではないか。

刺激的な表現にもかかわらず高い技術力と品格を感じるのはこのためで、カルチャーショックを受けるようなグランプリ作品と質を求めるのは二兎を追うようなもので欲張りというもの。残念ながら実施方法を見直さない限り、このジレンマは永遠に解決できないのではないか。

問題はこの現実をどのように見るかだが、私は今回の結果を肯定的に受け止めたいと思っている。なぜなら、尖ったグランプリ作品を輩出する展覧会は他に委ねても、同時代性の優れたアートの定点観測の役割を担う展覧会は、トリエンナーレ方式のとよた美術展をおいてないように思うからである。

最後に余談に逸れるが、係の女性に、図録は(?)と尋ねたが、困ったような顔をされてしまった。図録があれば前述したような意味を含めて、貴重な資料になるのにもったいない。


最後に準大賞作品を紹介




(美術展チラシ掲載写真より転載)

平野知映(兵庫県)《Hirano Cantabile》(部分)
仏像の三尊形式のように配置された球体のスクリーンに作者の顔を映したユーモラスな映像作品。写真ではわかりにくいが、土俗的な霊性を内包するなど大賞作品となっても納得。




(美術展チラシ掲載写真より転載)

渡邉野子(滋賀県)《待つ身体-3のパースペクティブ》
完成度と品格で、今回のとよた美術展を象徴する平面作品。




(美術展チラシ掲載写真より転載)

伊藤純代(埼玉県)《doll house#1》(部分)
存在感が際立っていた床置作品。こうしたおとぎ話のような仕事を見ると、私もつくづく遠くへきたものだと思う。


とよた美術展は
豊田市美術館で2月28日(日)まで
同時開催の「知覚の扉Ⅱ」もお薦め






  


Posted by かとうさとる at 03:25 | Comments(0) | アートの現在