2010年06月16日

ワーク・イン・プログレスがピンチ














  ロープで閉鎖されたワーク・イン・プログレスの展望台


豊田市民にとって
美術館は長い間の夢だった



私ごとで恐縮だが、豊田市美術館構想が発表された当時、私は幸運にも地域の文化振興に関わる職にいたため、「美術館を考える」「私たちの美術館」「地域に根ざす美術館」をテーマにした市民レベルのシンポジウムやトークサロンをシリーズで企画し、その日が来るのを待った。





  わいわいトーク「私たちの美術館」のチラシ(1992年10月)









  文協創立50周年記念誌に「地域に根差す美術館」を特集(1995年)






  当時トヨタ自動車のデザイン部にいた
  吉田稔さんが描いた建設中の豊田市美術館(1995年4月)







  豊田市美術館竣工(1995年11月)



例によって前置きが長くなってしまったが
本題に入る前に「豊田市美術館に対する市民サポーターとしての
私の立ち位置を説明しておいた方がいい」と判断したためで
ご容赦いただきたい。




1999年
川俣正のワーク・イン・プログレスが
豊田市美術館ではじまった
私は神さまから「ご褒美をいただいた」と
一人で祝杯をあげた




さて、本題だが、豊田市美術館の重要なコレクションの一つに
川俣正のワーク・イン・プログレスがある。

ワーク・イン・プログレスは、川俣のライフワークともいえるアートプロジェクトで、構想が発表されたとき、私は「ついにここまできたか」とカルチャーショックを受けたことを今も鮮やかに覚えている。1999年、そのワーク・イン・プログレスが豊田市美術館ではじまった。私は神さまから「ご褒美をいただいた」と一人で祝杯をあげた。

本展は、川俣が豊田市の風土をリサーチして構想したプランを、実際に現場で制作するという長期プロジェクトで、1999年のプランのプロポーザルにはじまり、2000年の現場制作、2001年のシンポジウム、2002年のワークショップ、2004年のワーク・イン・プログレス豊田と続いた。

端緒となったプランのプロポーザルは、建築でいえば設計図、演劇でいえば台本にあたるもので、川俣は先の大地の芸術祭でも「インターローカルネットワークセンター」で、アートプロジェクトのアーカイブに永遠の命を与えたように、このときも模型や写真パネルを使って、簡素で他に比類のない美しいインスタレーションでプランに命を与えた。


シンポジウムで川俣の話(真意)を
よく聞いておけばよかったと反省



美には何か恐ろしい罠が仕掛けられているというが、風のように自由で爽やかなプロポーザルに包まれていたとき、私はいいようのない不安に襲われた。その不安はシンポジウム、ワークショップ、現場制作と進む中で、次第に確かな形として立ち上がってきた。ボールは川俣から市民の側に投げられたからである。


メディアは、参加者が自主的に活動を進めていくプロジェクトに成長したと、ヨイショしたが、偏りを承知でいえば、私にはみんなでアートのまねごとをしているとしか思えなかった。常設作品の宿命でプランはいたるところに、安全性という名の補強が加えられ、作業を見ていた私には似て非なるものとしか思えなかった。川俣のことだから、もっと深い意味があるはずで、シンポジウムで川俣の話(真意)をよく聞いておけばよかったと反省しているが、後の祭り。


ワーク・イン・プログレスに絹の涙雨


最後に批判めいたことを述べてしまったが、展望台の愛称で呼ばれ木製の構造物は、美術館の駐車場脇の木立の中で時を刻み現在に至っているが、地方紙の片隅の記事を見て驚愕。現場に急いだ。そういえば妻が病に倒れたことから、しばらく美術館にも行っていないことを思い出した。





  新三河タイムスの記事






  現場に到着
  絹のような涙雨がやむこともなく降り続いていた






  正面に回ると痛々しさに怒りが






  どこが危険なのかわからないため看板に近づくと






  「ささくれが刺り危険です」の文字に唖然






  最初に制作されたベンチ



覚悟のない美術館はいらない


ワーク・イン・プログレスのシンポジウムで、当時の学芸課長は「木製の作品を野外に設置することは、コレクションの恒久性という意味でいえば疑問」というクレームがあったが、「プランに基づいて再制作することができると話をして、どうにか予算がついた」という意味の説明を加えた。

美術館も大変ということを言外に言いたかったのかもしれないが、質疑応答で私は「川俣作品は人間の命と同じで二つとないもので、再制作は作品の冒涜」という意味の疑問を呈した。

私たちは作品を生み出す現場には何度も立ち会ってきたが、作品が消滅に向かう現場に立ち会うことはなかった。いまワーク・イン・プログレスは、川俣から離れて土に還る準備をはじめたところで、私はその姿を美しいと思う。

美術館側の対応は、市民からのクレームによるものと想像するに難くないが、いま、ここで問われているのは、ワーク・イン・プログレスの安全性でなく、美術館の覚悟そのもので、覚悟のない美術館はいらない。  


Posted by かとうさとる at 00:59 | Comments(0) | アートの現在