2013年05月15日

「濃尾参州紀」徳川の始祖三代が眠る松平郷













高月院と司馬遼太郎





朝日文庫「濃尾参州紀」より転載


司馬遼太郎のライフワークとなった「街道をゆく」シリーズで
空白になっていたのが信長・秀吉・家康を生んだ愛知県





高月院を訪れた司馬遼太郎(「濃尾参州紀」より転載)

「街道をゆく」の連載は、司馬遼太郎の急逝により25年で途絶えたが
シリーズの絶筆となったのが、信長・秀吉・家康の足跡を追った
「濃尾参州紀」





徳川の始祖三代が眠る高月院


「濃尾参州紀」のなかで司馬遼太郎は高月院について
 
《三十年近く前、愛知県の地図をながめていた。
県の東方の三河の部を虫めがねでながめながら、
中に、「松平」という極小の活字を見つけて、うれしかった。
考古学者が思わぬ土器の破片でもみつけたような気持ちだった。
 さらに地図をこまかくみると、
そのあたりに水流がないことを知った。
すこしくだれば、細流がある。ほそぼそと山田を耕す農民が、
わずかにいたであろう。
水田の豊かな地から戦国の豪族が興るという常識からいえば、
徳川氏の遠祖は、ずいぶん暮らしにくげな辺地から出たことになる。》
と記している。













高月院のランドマークは白壁の参道と三本の黒松






松平東照宮に車を停めてぶらりぶらりゆくと
西洋シャクナゲがいま盛り



今日の目的はこちら
六所神社農村舞台


高月院の裏手にあたるのが松平郷坂上地区
もし司馬遼太郎がこの舞台を見たら
どのように書いたか読んでみたかったが
残念!





市指定有形民俗文化財六所神社農村舞台

今日の目的は舞台下手の奈落に入る開口口の確認







松平地区の農村舞台の多くは
廻り舞台があったと土地の古老の証言を得ているが
松平地区最大の六所神社の舞台については
舞台を張りかえているので
「わからん」とみんな首を傾げるだけ。

そんなわけで舞台下手の開口口に潜ってみた。
目視の範囲では、それらしき遺構は見当たらなかったが
石組を見ると何らかの舞台目的で掘られたことは確で
位置と広さから考えると「スッポン」の遺構ではないか。

いずれにしても「スッポン」があって
廻り舞台がないのは不自然。
部落に舞台の修理記録が残っていないかどうか
調べてみるしかない。



帰路は王滝渓谷を散策












こちらは説明略

  


Posted by かとうさとる at 23:11 | Comments(0) | 農村舞台