2013年08月10日

農村舞台アートプロジェクト2013概要決まる








農村舞台アートプロジェクトとは





   豊田市有形民俗文化財六所神社農村舞台

豊田市はトヨタ自動車の本社があることから
近代的な工業都市のイメージが先行していますが
面積で県内最大、その内の約7割が天竜奥三河国定高原につらなる
中山間地で、足助の香嵐渓や小原和紙など豊かな自然や
伝統文化が息づく中核都市です

こうした豊田市の原風景を今に伝えるのが
市内の東部から北部一帯に点在にする農村舞台群です



   廃絶された上川口町農村舞台(藤岡村誌より転載)        

近年の目視調査によると78棟を数え
中には文化5年(1808年)に建てられた
市指定の中金町岩倉神社農村舞台のように廻り舞台のある
本格的な地狂言の舞台もありますが
多くの舞台はその役割を終えて廃絶の危機に瀕しています

農村舞台アートプロジェクトは
地域や集落の人たちと協働し
こうした農村舞台群を今に生きる文化資源として活用し
新たな市民文化の可能性を可能性を探るプロジェクトです


4年目を迎えた今回は

あいちトリエンナーレ2013パートナーシップ事業として
藤岡地区を中心に
ライブプロジェクト3舞台
アートプロジェクト5舞台
地域プロジェクト2舞台の計10舞台で開催します







    農村舞台アートプロジェクト2013のチラシ
    A3二つ折で表面にプロジェクトの概要
    裏面に今回の舞台のガイドマップを掲載


 

プロジェクトの概要

会期
2013年9月15日(日)⇒11月9日(日)
会場
藤岡地区を中心に10舞台を予定


Ⅰアートプロジェクト


   かとうさとる「人形は葦舟にのって里帰り」(小田木人形座跡地)2012年

農村舞台を現代のギャラリーに見立てて
個展形式で農村舞台の可能性やアートの可能性を探るプロジェクト
出品作家
●石田真典(写真)/迫町磯崎神社農村舞台
●加納恒(造形)+加納登茂美(小原和紙)/藤岡飯野町秋葉神社農村舞台
●山下紀菜(スペースデザイン)/折平町八柱神社農村舞台
●かとうさとる(現代いけばな)/北曽木町神明神社農村舞台
●中根栄二(彫刻)+中根理(造形)/三箇町八柱神社農村舞台
公開制作
9月13日(金)・9月14日(土)
公開展示
9月15日(日)⇒9月23日(月/祝日)
公開時間
日の出から日没まで

Ⅱライブプロジェクト
農村舞台を現代の劇場に見てて
伝統芸能やパフォーミングアーツなど実験的なライブをとおして
農村舞台の可能性を探るプロジェクト

農村舞台でカントリーミュージック



軽快で陽気なカントリーミュージックのミュージシャンが
農村舞台に初挑戦。出演は「あじさい寺」などのヒット曲や
地元のコマーシャルソングでお馴染の北川とみ
名古屋を中心に活躍するオ―スシテイリミッツ(写真)
様々なジャンルの歌に挑戦するフレッシュな宮坂俊行
地元の陣中太鼓連もカントリーミュージックのコラボに挑みます
●日時:9月15日(日)18:00開演
●会場:深見町磯崎神社農村舞台
●入場:木戸銭1000円(中学生以下無料)
●制作協力:演劇人集団河童塾

~小田木人形座の復活に向けて~
恵那文楽小田木公演



    岐阜県有形民俗文化財「恵那文楽」は元禄時代に阿波の傀儡子から
    恵那山のふもとの川上(かおれ)地区に伝えられた文楽人形です
    写真は鎌倉三代記-高綱物語段-(桑原町熊野神社農村舞台)2011年


江戸時代の中頃、稲武地区の小田木町に伝えられ
明治のはじめに途絶えた小田木人形座の復活に向けたプロジェクト
プログラムは、豊田市視聴覚ライブラリー制作
「~消えた伝統芸能~小田木人形座」の上映と解説
恵那文楽「鎌倉三代記-高綱物語段-」の上演(写真)
当日は、小田木人形座の三番叟の人形を祭礼以外で初めて公開します
●日時:9月22日(日)18:00開演
●会場:小田木八幡神社小田木人形舞台跡地
●入場:木戸銭1000円(中学生以下無料)

農村舞台でコンテンポラリーダンス



農村舞台は異質なものに出会うと今まで見えなかった
構造の仕組みが見えてきます
こうした舞台の特異性に着目してスタートしたのが
コンテンポラリーア―ツシリーズです
2年目を迎えた今回は京都を拠点に国際的に活躍する
コンテンポラリーダンスカンパニーの
坂本公成+森裕子農村舞台に挑みます(写真)
●日時:9月29日(日)18:00開演
●会場:藤岡飯野町秋葉神社農村舞台
●入場:木戸銭1000円(中学生以下無料)

Ⅲ地域プロジェクト
農村歌舞伎保存会や地域団体と協働して
地域に生きる農村舞台の可能性を探るプロジェクト

石野歌舞伎公演


    2011年10月9日中日新聞より転載

市指定の中金町岩倉神社農村舞台の大改修を機に復活した
石野歌舞伎の定期公演
●日時:10月12日(土)午後~
●会場:中金町岩倉神社農村舞台
●入場:無料

夢渡野ジャズライブ



全国水の郷100選に選ばれた旭地区の中心
小渡のまちおこしのライブ(写真)
●日時:11月9日(土)18:00開演
●会場:小渡町神明神社農村舞台
●入場:有料

主催
公益財団法人豊田市文化振興財団
主管
農村舞台アートプロジェクト委員会
後援
豊田市・豊田市教育委員会
問合せ
公益財団法人豊田市文化振興財団
文化部文化事業課(豊田市民文化会館内)☎0565-31-8804  続きを読む


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2013年01月26日

ライブラリー(25)アートの青春日記











前門のトラ後門のオオカミ



昨日は大地の芸術祭事務局の高橋さんから
蓬平いけばなの家の常設化の対応について確認の電話(ドキッ)

ロングランのリレー個展やグループ展による展開など
年末のFの会の基本的な考え方を説明(了解)

越後妻有2013春については時期がズレても
チラシに「蓬平いけばなの家」オープンの日が
告知できれば十分とのことで
心配していた課題もなんとかクリア
「今月末までに具体的な企画書を提案します」と私

やはりこういうことは尻に火がつくのが一番だが
事情によっては(オープンまで時間がないためモデル展示)
リレー個展のトップバッターになる確率が大

前門のトラ後門のオオカミというが
夜は夜で吟舞夢一座の吟詠ミュージカルの説明会
座長の松尾さんが説明したが
本邦初公開となる吟詠ミュージカルとなるため
「自信がない」「費用負担が大変」と異論続出

いずれも想定内で2月中旬に異論を踏まえて
「具体的な構想を提案する」と私

農村舞台も衆議院議員の八木さんから電話
「文化庁と協議した」と、とんでもない話に発展しそう
小田木の人形座の再興もある
蓬平いけばなの家の図録の編集も待ったなし

身から出た錆とはいえピンチはチャンス!
と、アタマを切り替えるしかない



そう言えば
作品ライブラリーも
25年前でストップしたまま


1988年と言えば40代も半ば前
前しか見えなかったが
無限な青空が広がっていた








工事現場から
建築と同時進行でLIVE



ラッキーキャツトイベント|祀りからまつりは
名古屋の大曽根で新築マンションのオーナーとなった
現代フルート奏者の真野利郎さんが企画したもので
マンションの建設にあわせて各階が立ち上がるごとに
アートで地鎮祭をしようという破天荒なイベントだった

トップバッターは
工事現場の塀をペインティングするイベント
作家は彫刻家の今井謹郎さんと造形家の磯辺聡さん


2番目は
名芸大のアーティスト集団
E・D・LABOの「アートの大運動会」






ラッキーキャツトイベント(名古屋市大曽根)1988年


3番目を受け持ったのが私
天井に水道パイプを配管したあとタル木をランダムに設置
水が霧雨のようにふる民俗の深層風景をインスタレーションした
つもりでいたが、真野さんからクレーム

「かとうさん!僕のマンションが雨漏りするみたいで
縁起でもないことをするね」と言ったあと破顔一笑(太っ腹っ)

4番目は
今度もし吟詠ミュージカルが実現すれば一緒に仕事をする
三味線弥十介(現六柳庵やそ)さんがプロデュースした
「弾き語りのポトラッチ~長唄・筝曲・民謡の競演~」

三味線弥十介(長唄)/谷澤千早(奏曲)/加藤条山(尺八)
近藤信代(民謡)/牛丸哲朗(民謡)

打ちっぱなしのコンクリートの床にムシロを敷いて
客はオーナーの真野さんとモダンダンスの野々村さんと
私のほか5~6人しかいなかったのではないか(究極の贅沢)

ライブは鳥肌もので膝が諤々震えたのを
今でも思い出す

5番目は
伊藤佳代さんの「風の一座伊藤佳代芝居」

6番目は
モダンダンス野々村明子さんの「Danceラプソディー」

7番目は
オーナー真野利郎さんの「金目銀目」

出演は真野利郎(現代フルート)/MABO雅弥(パーカッション)
シャーマン圭子(ダンス)/一色真由美

よくこれだけのメンバーが集まったものと感心するが
いまでは顔を合わせることも稀になってしまった

未来は無限と夢見ていたアートの青春日記の一つで
贅沢はいわない
フィルムの巻き戻しができるものなら
もう一度あの頃に戻ってみたいもの





  


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2009年06月11日

ライブラリー(24)葉蘭に始まって葉蘭に終わる


稽古の意味

魚釣りは鮒に始まって鮒に終わるというが、私がいけばなの稽古をはじめた頃は、いけばなは葉蘭に始まって葉蘭に終わると教えられた。花會になるとみんな葉蘭の枚数を競っていた。定型を外すと「ここが違う」と、有無を言わせず鋏を入れられた。当時は反発したが、いま思うとこうした定型の繰り返しが今日の空間認識の元になっていることがわかる。感謝。




葉蘭|吉川正道作「青磁おもた鉢」(常滑)1988年



  


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2009年06月04日

作品ライブラリー(23)猿投神社で水をいける


作品集の巻頭は猿投神社と決めた理由

私が初詣でお参りする猿投神社は、古来より武家の崇敬が篤く、中世の衣の里を治めた中条氏はたびたび神田を寄進。徳川家康も慶長7年(1602)776石の神領を安堵するなど、当地では屈指の石高をもつ神社である。こうした大社に共通するのが神仏習合で、明治元年の神仏分離令により取り壊されてしまったが、盛期には16僧坊を数えたという。キナ臭い話に事欠かない今、歴史はいつかきた道に戻ることを肝に命じなければ。話は余談に逸れたが、そんな訳で作品集の巻頭は猿投神社と決めた。





上図は『豊田・加茂の歴史』より転載した「猿投神社祭礼絵巻」の部分。
杉木立の中の建物は神宮寺の一つで現存。左の建物も神宮寺の一つで碑が遺されている。絵巻の上部に描かれた建物が消えた神宮寺群と思われる。





猿投神社の正面。左奥に禊の御水場があるが工事中のため撮影は断念




猿投神社で水をいける





器は猿投の土で焼いた猿投窯山田和俊さん快心の陶
1988年夏、身体を清め滝壺の石の上に陶を静かに沈めた

  


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2009年05月27日

ライブラリー(22)農村舞台で献火のコラボレーション


松平郷と六所神社の農村舞台

六山所の麓にひっそりとたたずむ市内松平郷は、徳川家の始祖松平親氏(ちかうじ)ゆかりの山里で、司馬遼太郎の短編紀行集「街道をゆく」で読んだ方もいるのではないか。菩提寺の高月院には葵紋を配した墓所が祀られ、文政年間には、11代将軍家斉の命により、明治21年には、旧大和郡山藩主柳沢保申の寄進により、それぞれ修理されて現在に至っている。

この高月院からひと山越えた裏手にあるのが六所神社下社の農村舞台で、松平郷の豊かな文化を今に伝えている。




農村舞台は、農山村で地歌舞伎や村芝居などが演じられた舞台の総称で、六所神社の農村舞台は明治5年に建てられ、明治中期以前の二重仕掛けの構造をよくとどめていることから、文化財に指定されている。


農村舞台で献火のコラボレーション

1988年1月、APITAスタジオAの個展で「かとうさんは作品集は作らないの」と尋ねられた。夢想だにもしていなかったが目の前に光明がさしたと思った。そんなふうにして作品集の制作がスタート。前田公園の献火の一人ライブの次は、現代フルートの真野利郎さん、モダンダンスの野々村明子さんとの献火のコラボレーション。場所は六所神社の農村舞台と決めた。





1988年6月6日、陽も西に傾きはじめた夕刻、農村舞台のコラボレーションがはじまった。写真は真野さんと野々村さんの出を待つ舞台。
素材|藍甕、赤い風船、割り竹、火  


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2009年05月22日

ライブラリー(21)前田公園で献火の一人ライブ


前田公園と前田栄次郎

名勝平戸橋の前田公園は、昭和9年市内越戸町出身の実業家前田栄次郎が、私費で作った公園で、私が小学生の頃は春の遠足の定番コースになっていた。山の中腹には前田記念堂が造営され、山頂には聖観世音菩薩が祀られていた。山中には石仏が点々と安置され、山頂に登る石段の脇にはトルソーのように頭部が欠けた灯篭がポツン々と立っていた。いろいろあったが、今でも鮮やかに覚えているのは、この灯篭の美しさで、悪ガキにも山が自然に還り始めていることがわかった。今は市の公園整備が進み灯篭は撤去されてしまったが、作品集を思い立ったとき、最後のページはこの場所に手向けたいと思った。




前田公園の石段



献火





1988年4月12日、日没の時間を計って石段に一つひとつ灯を入れた。石段の正面に影のように見えるのが聖観世音菩薩像。


  


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2009年05月14日

ライブラリー(20)手さぐりの中から展の幕を引く





「ムシロフェンス」からスタートした個展「手さぐりの中から」シリーズの幕を引いた生活創庫APITAスタジオ個展のDM



足助の山中で炭を焼く

1987年の夏、私は足助の山中に炭焼きのオヤジを訪ねた。「お前さんたちは炭焼きを舐めている」と、ケンもほろほろに追い返されてしまった。退路を絶っていた私は一升瓶を持って頭を下げ続けた。そんな風にして小さなログハウス一軒分を炭にしたプロジェクトがはじまった。最後に窯の焚口が開いたときは展覧会の搬入まで一週間を切っていた。





檜の炭、白い風船|パフォーマンス真野利郎(現代フルート)、野々村明子(モダンダンス)|生活創庫APITAスタジオ(名古屋)1988年1月










作品ライブラリー(15)で「もう一度戻りたい場所がある」とINAX窯のある広場の個展をとりあげた。生活創庫APITAスタジオの個展もまた同じ意味で、叶うものならもう一度戻りたい。目を閉じると足助の山と真っ黒になって手伝ってくれた仲間の顔が鮮やかに浮かんでくる。作品集の計画を決めたのもこの個展の会期中だった。
  


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2009年05月11日

作品ライブラリー(19)祈るようにして籾殻を散華





籾殻の燻炭、赤い毛糸|産業貿易センター台東館(浅草)1987年



私の籾殻シリーズは散華からはじまった

私が小さい頃は、冬から春先にかけてどの家の庭先でも籾殻を燻していた。畑の肥料にするためだが、煙に独特のアンモニア臭があり、悪ガキの私もさすがに避けて遊んだ。楽しみは焼き芋で、籾殻で焼いた薩摩芋は格別にうまかった。私の好んで使う素材はそんな風にしてどこかで原体験と重なっている。籾殻が作品になるという確信はなかったが、公募展に出品するため籾殻をリュックに詰めて新幹線に乗った。私の籾殻シリーズの端緒で、87年12月、私は祈るようにして籾殻を散華した。



テキスト|行為から空間造形へ





籾殻の燻炭、コンパネ、足場丸太、和紙|豊田市美術館(豊田)1999年





籾殻の燻炭、コンパネ|Jpan2001(ロンドン)2001年







  


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2009年04月20日

ライブラリー(18)昭和美術館で華工房野外展




西瓜の虫よけ袋にペンティング(昭和美術館)1987年


假屋崎省吾名古屋初見参

昭和美術館は名古屋の南東八事にほど近い閑静な住宅地の一角にある森の中の美術館で、コレクションの80%が茶道に関することから茶の美術館として知られている。中でも尾頭坂あたりの堀川の東岸にあったという尾張藩家老渡辺規綱(号を又日庵といい、裏千家中興の祖といわれる玄々斎宗室は又日庵の末弟)の別邸から移築した茶室捩駕籠の席と書院は有名。

作品は、この昭和美術館で開催した華工房野外展に出品したもので、この野外展にはプレイクする前の假屋崎省吾、小原流の工藤亜美さんが出品。また美術評論家の中村英樹さんがクリストのヴァレーカーテンについて講演するなど、贅沢なものだったが、当時の私は勢いに任せているだけで、野球でいえば見逃しの三振。恥ずかしい話だがこんなことの繰り返しばかりで、未だに治っていない。
  


Posted by かとうさとる at 04:43 | Comments(0) | 作品ライブラリー

2009年03月22日

ライブラリー(17)はかた夢松原と川口道子さん



福岡市美術館広場で開催された現代いけばな公募展(福岡)1987年



イベントの時代を駆け抜ける

作品ライブラリー(15)で、「もう一度戻りたい場所がある」とINAX窯のある広場の個展について記したが、確かに何かが弾けた。思いつくまま87年~89年、三ヶ年の足跡をざっと記すと。

(87年)個展(INAX窯のある広場)、華工房展(栄NOVA)、現代いけばな公募展(福岡)、華工房野外展(昭和美術館)、いけばなグループイベントinYOKOHAMA(横浜)、87いけばな公募展(東京)

(88年)個展(APITAスタジオ)、華工房展(新幹線高架下)、前田公園イベント(豊田市)、六所神社イベント(農村舞台)、桜島イベント(桜島)、個展(画廊みずの)、ラッキーキャットイベント(大曽根)、88いけばな公募展(東京)

(89年)個展(新栄画廊)、個展(田村画廊)、野々村明子ダンスシリーズⅠ~Ⅴ「野原よりの手紙」(七ツ寺共同スタジオ)、アジア現代いけばな公募展(福岡)、公募ザ・ワークスinとこなめ(焼き物散歩道)、現代いけばな89(銀座松屋)などなど。

さすがに最後は息が切れたが、よく駆け抜けたものだと思う。


はかた夢松原と川口道子さん

余談に逸れたが、「8人の会」に端を発したアンデパンダン方式によるいけばなイベントは、五箇山、常滑、豊田、秋田、新潟、金沢、名古屋と伝播し、86年には九州に飛び火。福岡、湯布院、桜島と続いた。

最初に仕掛けたのは玄華会を主宰する川口道子さんで、博多湾に松原を復元しようと言う市民運動のリーダーの川口さんは、「松ぼっくりを持って福岡で逢いましょう」という主旨のメッセージを全国に発信した。

「現代いけばな公募展」にアジアの冠をつけたように、川口さんは常に福岡をアジアの視点で考えていた。「はかた夢松原」もアジアの玄関口博多湾を「白砂青松の海原」に、という気宇壮大な仕掛で、時を経て「博多に昔の松原が復元」「NPO法人はかた夢松原の会(川口道子会長)が全国のふるさとづくりで表彰」という記事を読んだ。人工海浜がどんな松原になったのか、イベントの痕跡とあわせていつか訪ねてみたい。

  


Posted by かとうさとる at 00:33 | Comments(0) | 作品ライブラリー

2009年02月10日

作品ライブラリー(16)灼熱の常滑と窯のある広場(2)



製材された生木の香りに包まれたINAX窯のある広場「倒焔式角窯」のインスタレーション


みんなの笑顔が走馬灯のように浮かんでくる

宮島達男の数あるデジタルカウンターの作品の中で最も印象に残っているものにアートの島として知られる直島の家プロジェクト「Sea of Time 98」、「時の海」と題した作品がある。この作品は、直島の木村地区の民家を改修して作品化したもので、宮島は地域の住民と協働して制作したそうだ。民家の空間を海に見立てた水の中に、集落の人が持ち寄ったデジタルカウンターが命を刻むように点滅していた。ホタルの光のように淡く 一つひとつに生命が宿っているようようで思わず手を合わせた。

悠久な宮島の「時の海」に比べるべくもないが人間の記憶の回路の劣化は早い。当時窯のある広場を担当していたのはINAXの鬼頭さんという総務部長で、いろいろと便宜を図っていただいたのを覚えているが、どのような経緯で事が進んだのか霞がかかったように思いだせない。今頃気がついても遅いが、縁もゆかりもない余所者の自分を気持ちよく受けて入れてくれた背景には、多くの人のサポートがあったことは想像に難くない。加藤龍子さんは言うまでもないが、まず吉川正道さんと千香子さんの顔が浮かぶ。次に鯉江良二さん、当時INAXのデザイン部長をしていた家坂ルリ子さんのご主人etc。みんなの笑顔が走馬灯のように浮かんでくる。

狩猟民族と農耕民族の違いを痛感

会期は昭和62年1月5日(月)~11日(日)と決まった。当時ディビット・ナッシュやアンディー・ゴールドワジーなどイギリスの作家に衝撃を受けていた私は、いけばなの独自性を求めて足助の山に足蹴となく通ったが、森林の臭気に圧倒されて収穫ゼロ。狩猟民族と農耕民族の違い、体力の違いを痛感させられた。そんなとき見つけたのが森林組合の製材された生木が放つ香りだった。一夜干しの魚が魚の旨味を増すように、製材は生木にとって死を意味するものではなく、新たな命の始まりと思った。

もう迷いはない

本格的に準備を始めたのは11月に入ってからで、まず窯の図面を引いて寸法を割り出した。条件は「安全性と壁面に触れないこと」という二点で、あとは自由とのことだった。もう迷いはない。同時進行でムシロフェンスの準備を進めた。問題は現場制作で、INAXが年末年始の休みに入ってしまうからだ。この難問は「鍵を預けるから責任をもって管理してください」という鬼頭さんの一言で決まった。

INAX窯のある広場について、(1)(2)に分けて、ざっと思いつくまま記したが、すべてが幸運の重なりで、自分は人の善意の上に生かされていたと改めて思う。最終日搬出が終わったあと、空を見上げると白い雪が降ってきた。「最後は雪が降るといい」と龍子さんと話していたが本当に雪が降ってくるとは思わなかった。このとき、群れて楽しんで、夢がヒカッて、ただ前しか見えなかった「私の花」の第一ステージの終りを予感した。(1)で「もう一度戻りたい場所がある」と見出しに記した理由である。



小原挿花現代花人列伝

小原挿花は小原流の機関誌で、特に70年代から80年代にかけて、流派を横断した斬新な編集方針で現代いけばなの動向に大きな影響を与えた。現代花人列伝はその小原流挿花がシリーズとして掲載したもので、流派を超えて有力な花人を取り上げるという、今では考えられない無謀な企画が話題をよんだ。前衛が時代をひらくというが、現代いけばなに小原挿花が果たした役割を私たちは忘れてはいけない。





1987年小原挿花9月号の現代花人列伝に掲載されたINAX窯のある広場の個展













  


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2009年02月08日

作品ライブラリー(15)灼熱の常滑と窯のある広場(1)



INAX窯のある広場資料館の全景(1986年)


もう一度戻りたい場所がある

この道を歩きはじめてまもなく半世紀近くなるが、もしタイムトンネルがあって希望が叶うなら、もう一度戻りたい場所がある。その一つが常滑のINAX窯のある広場である。1986年の熱い夏の一日、私は龍生派の加藤龍子さんに案内されて常滑に向かった。どこをどんなふうに行ったのか覚えていないが、「着いたよ」と龍子さんに言われて車を降りた。

周りを見渡すと黒いコールタールで塗られた工場の中庭のような場所で、大きな煙突が聳えていた。何か異空間に迷い込んだような不安感に襲われ龍子さんの背中を探したがいない。「早く行くよ」という声に導かれるようにして建物の中に入った。まだその時はここがどんな場所で、何のために案内されてきたのか、私は気がついていなかった。

2階から眼下に姿を現わした巨大な窯を見たときの衝撃を今も鮮やかに覚えている。「火の魔王が眠っている」と、膝がガタガタと音を立てて崩れた。車を降りたときの不安感の正体はこの魔王のせいだと気がついた。こんなことを書くと作為に過ぎると思われるかも知れないが、灼熱の常滑と巨大な窯と龍子さんの一期一会の出会いは、夏がくるたびに思い出す。

INAX窯のある広場の個展は、このようにしてはじまったが、決断したのは夏も終わるころだった。「常滑の聖なる場所に余所者が立ち入ってはいけない」と自制する自分と、「やってみたい」と逸る自分の整理に時間がかかったからである。背中を押したのは常滑を代表する陶芸家の鯉江良二さんと吉川正道さんの「やりたいものがやればいい」の一言だった。龍子さんにそのことを伝えると「やっと決めたかい」と笑った。


常滑と倒焔式角窯

常滑は日本六古窯の一つに数えられ、明治初年にこの地で陶管の量産が行われるようになって以来、昭和30年代まで「土管のまち」として親しまれてきた。現在では中部国際空港が常滑沖合に開港、町中に数多く見られたレンガ造りの煙突と窯も姿を消そうとしている。時代の趨勢とはいえ一抹の寂しさを禁じることができない。窯のある広場の倒焔式角窯は土管のまち常滑を象徴する産業窯で、97年国の登録文化財に指定された。

倒焔式角窯とムシロフェンス



2階から見た倒焔式角窯の全景とINAX窯のある広場個展 ムシロフェンスⅠ(1987年)



INAX窯のある広場個展 ムシロフェンスⅡ(1987年)



INAX窯のある広場個展 ムシロフェンスⅢ(1987年)









  


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2009年01月16日

作品ライブラリー(14)花は戦い





竹、玉石|豊田市民文化会館(1986年)


華工房のこと

この作品は、「華工房」という私が関わったグループ展で発表したもの。「華工房」については、別の機会に述べるため割愛するが、毎回現代いけばなの第一線で活躍する旬の作家やジャンルを越境したゲストを招いたイベントを展開。このときも彫刻家の今井謹郎さんをゲストに招いた。

ライバルは勅使河原宏と決めた

一見して分かるようにこの作品は、「竹」の弾力を意図したもので、笑われるかも知れないがライバルは勅使河原宏と決めた。当時草月流家元の勅使河原宏が大規模な竹のインスタレーションを展開。竹=勅使河原宏=草月ブランドとしてガウディの「サクラダファミリア」のように聳えていたからである。言い訳をするなら「竹」をやるなと、自分に言い聞かせた。

中川幸夫は「生きる証である」と、「華・中川幸夫作品集」に記したが、当時の私にとって「花は戦い」だった。この竹は凶器で、事故がなくてよかったが、一歩誤ると大惨事になるところだった。当然管理者は強固に変更を要求したが、前回のライブラリー(13)で白状したように、聞く耳をもたずに強行した。竹の弾力だけで、際どい均衡が勝負を分けると決めていたからである。もちろん今ではこんな無謀な企みはしないが、このとき、私の中で「空間」が確かな形となって立ち上がってくるのを感じた。  


Posted by かとうさとる at 03:05 | Comments(0) | 作品ライブラリー

2009年01月10日

作品ライブラリー(13)栄NOVAに進出





名古屋で初めての個展はお洒落なファッションビル「栄NOVA」だった
寸角、段ボール、クヌギ、パワーライト(光源)|栄NOVA(名古屋)1986年



いけばなの領域

この作品は、個展「手さぐりの中から」シリーズの三作目として発表したもので、今から見れば完全にインスタレーションだが、当時は、まだインスタレーションという言葉さえ聞いたことがなかった。当然のように「活ける」という方法論しかなく、無限のキャンパスを前に武者震いする自分と、「いけばなの領域」との狭間で最後まで葛藤が続いた。自然への畏怖という素朴な民俗からはじまった私の「花」の矜持で、この葛藤はいまも私の中で連綿と途切れることがない。


私の悪い癖

ところで、私の悪い癖は、自分の作品のことになると、突っ走って周りが見えなくなることで、この作品も作品の一部が通路にはみ出している。「消防法違反で直すように」と指摘されたが強引に押し通してしまった。当然のように次からは出入り禁止で、そのことによって多くの人が迷惑を被ったと言う話を風の噂に聞いた。後に名古屋市民ギャラリーの所長から「かとうさんには注意するようにと言われていたが普通の人で安心した」と言われて、ブラックリストの存在を知ったが、関係者の間では有名だったらしい。恥ずかしい話だが、この悪い癖は今も治っていない。  


Posted by かとうさとる at 03:30 | Comments(0) | 作品ライブラリー

2009年01月06日

作品ライブラリー(12)箱根の森イベント




箱根の森をキャンバスに見立てて「空間のドローイング」の試行
連結した塩ビパイプ≒80m|「84いけばな公募展・箱根の森イベント」(1984年)



打ち上げの刺激を求めて

3日の朝日新聞のフロントランナーは、「暗い世相笑いで吹き飛ばす」と春風亭小朝を取り上げた。その中で小朝は落語家の東西交流を進める狙いについて、「東西の落語家が入り乱れて、初対面同士が酒を飲んで、そのうち密談したりなんかして、それから交流を始めた、なんて人たちもいる」と、打ち上げの刺激を一番に挙げている。

1976年、現代いけばなのオピニオングループの「8人の会」が主催したアンデパンダン形式の「いけばな公募展」が、短期間の間に市民権をもつようになった背景の一つがこの「打ち上げ」のパワーで、流派や肩書を外した刺激的な交流はまたたくまに全国に波及していった。私もそうした一人で、「打ち上げ」の刺激を求めて各地のイベントにかけつけた。

この作品は1984年3月、箱根で開催された「84いけばな公募展・箱根の森イベント」に出品したもので、いま振り返ると、この頃から「空間のドローイング」という空間認識が芽生え始めたようだ。  


Posted by かとうさとる at 02:55 | Comments(0) | 作品ライブラリー

2008年12月09日

作品ライブラリー(11)いけばな公募展







グラン・パ・ド・ドゥ(1982年)

伝説のいけばな作家半田唄子

この作品は「ライブラリー10」でとりあげた、世界バレエフェスティバルのグラン・パ・ド・ドゥから想を得た連作で、発表したのは池袋のサンシャイン美術館で開催された「いけばな公募展」。

この公募展を見にきた中川先生(中川幸夫)と奥さんの半田先生(半田唄子:中川幸夫の最大のライバルと讃えられている伝説的ないけばな作家)が、私の作品の前で足を止めた。「これがかとう君の作品か」と中川先生。半田先生は挨拶をして先に行ったため、中川先生と二人になった。

話はそのあとの出来事で、中川先生が去ったあと半田先生が小走りで戻ってきた。「(作品について)かとうさん、中川は何と言っていた?」と半田先生。私はその言葉のもつ意味に言葉を失った。病魔に侵されていた半田先生とお会いした最後で、私はこの作品を見るたびに今でも半田先生を思い出す。

いけばな公募展/手漉き和紙、着色ロープ/サンシャイン美術館(東京)1982年

  


Posted by かとうさとる at 21:09 | Comments(0) | 作品ライブラリー

2008年12月09日

作品ライブラリー(10)バレエから想を得る









グラン・パ・ド・ドゥ(1982年)


グラン・パ・ド・ドゥ

次の作品に進む前に時計の針を少し戻したい。

この作品は「作品ライブラリー5」でとりあげた「和紙と木彫・陶と華四人展」で発表したもので、私が好んで使う色彩の「鉛丹」の端緒となった作品である。

想の元となったのは、1978年、上野の東京文化会館で観た「世界バレエ・フェスティバル」だった。私が30年も前に観た舞台の年を覚えているのは、同じ日、お茶の水の主婦の友ビルに「いけばなイベント」の企画書をもって工藤昌伸先生を訪ねているからで、前しか見えなかった眩しい日々の記憶と重なるからである。

バレエ・フェスティバルはその日の夜観たもので、1組のダンサーが演じたグラン・パ・ド・ドゥに鳥肌がたってしまった。この作品はこのときの衝撃を表したものである。

■素材:工事用建材、塗料/寸法径30㌢×長さ210㌢×7本
豊田市民文化会館(豊田)/1982年
  


Posted by かとうさとる at 03:21 | Comments(0) | 作品ライブラリー

2008年11月24日

作品ライブラリー(9)いけばなの著作権を考える









セイダカアワダチソウを思いっきり手元に引き付けるため、逸る心を制して伐るのは搬入日の早朝と決めた。その日の朝、目が覚めると外は大雪で真白に積っていた・・・。



セイダカアワダチソウ

説明は省くがムシロフェンスの次はセイダカアワダチソウと決めていた。ところがやっかいな問題がもちあがった。横浜の坂田純さん(現在はバリ島に活動拠点を移し、バナナで漉いた紙のドローイングで国際的に活躍)が、個展でセイダカアワダチソウシリーズを始めたからである。

いけばなは様式(手法)を著作権フリーにすることで発展してきたが、個をベースにした現代いけばなに著作権フリーはないからだ。手法は論外としても問題は素材だ。現代いけばなにとって素材の選択は表現の核心にふれる重要な意味をもっているからだ。

むろん自然の草木には著作権がない。最終的には「良心の問題」であり、「知っていても影響されていない」という確信が背中を押した。西武時代の松坂は当時オリックスのイチローを抑えて「自信が確信に変わった」とコメントしたが、ギアチェンジという意味でいえば、このとき私の中で初めて「現代いけばな」という確かな意識が生まれた。



大雪というハプニングでスタートしたセイダカアワダチソウの正月個展
素材:セイダカアワダチソウ、和紙|七州画廊(豊田)1985年


  


Posted by かとうさとる at 01:55 | Comments(0) | 作品ライブラリー

2008年11月18日

作品ライブラリー(8)中部いけ花公募展









焼いた田圃の土/寸法≒150㎝×70㎝×25㎝/会場:豊田市民文化会館(1985年)


イベントの時代の幕を開く

愛知の人間にとっていけばなの中心は京都で、私も「いけばな批評」(1973~1976)を知る前は、「華道京展」や「阿吽の会」展に何度か足を運んだことがある。「いけばなEXPO81」は、こうした伝統的ないけばなに安住していた中部以西のいけばな界に衝撃的な事件となった。

「中部いけ花公募展」は、名古屋を中心に「いけばなEXPO81」に衝撃を受けた有志が実行委員となって企画したもので、《全国公募のいけばな展を中部地区の各都市持ち回りで開催し、中部地区から現代いけばなを発信しよう》というもので、第1回を豊田市(1985年)で開催した。

シンポジウムのゲストに版画家の池田満寿夫、彫刻家の新宮晋を招いたこの公募展は、「いけばなEXPO81」のイメージと重なり、全国各地から130名余の作家が参加した。こうした流派を横断したいけばな仲間のネットワークは、全国各地の現代いけばなイベントと連動し、いけばなは新たな時代の幕をひらいた。

この作品は中部いけ花公募展に出品したもので、焼いた田圃の土をスコップで切り取って、ドーンと設置したが、確信があったわけではない。正直に白状すれば、当時この仕事の意味についても気がついていなかった。


中部いけ花公募展のポストカード



















  


Posted by かとうさとる at 04:05 | Comments(0) | 作品ライブラリー

2008年10月14日

作品ライブラリー(7)ムシロフェンス









素材:ムシロ、玉石、ロープ/スペース:≒1200㌢×800㌢/
場所:豊田市民文化会館(豊田)1983年


天井の窓が開いた

この作品は、作品ライブラリー6でとりあげた「ヨリシロ」と同じ個展で発表したもので、タイトルの「ムシロフェンス」は、憧れていたクリストのランニングフェンスから想を得たもの、というよりもクリストに対する畏敬の気持ちを表したもの。後にクリスト展の企画に関わり、名古屋駅にクリスト夫妻を迎えたが、私にとって新幹線から降りてきたクリストは、洛陽の都で杜子春が見た夢の世界で、未だに信じることができない。

信じることができない、と言えば、この作品の誕生そのものも偶然の賜物で、できあがった空間を見て一番驚いたのが私自身だった。後にインスタレーションという言葉を知ったが、壁面を背にした手法しかない私にとって600平方メートル近い無限の空間は象に挑む蟻のようなもの。無謀な企てと悔いたが後の祭りで、そんなときに閃いたのが身近にあったムシロだった。

出来上がったムシロフェンスを前にした大人はみんな不思議そうな顔をして首をかしげ、子供たちは遊園地で遊ぶようにムシロフェンスの下を潜り抜けて走りまわっていた。「作品を分けてほしい」という人まで現れた。「やった」と内心小躍りした。事情を聞くと「畑の霜よけにしたい」とのことで、最後にオチがついてしまったが、私にとってムシロフェンスは青天の霹靂で、天井の窓がこのとき開いた。



サイドから見たムシロフェンス

  


Posted by かとうさとる at 13:02 | Comments(0) | 作品ライブラリー