2010年06月30日

農村舞台プロジェクト(2)農村舞台の構造と概要










ようやく機が熟したというのが実感


農村舞台アートプロジェクトについて記したところ
たくさんの方から農村舞台について質問をいただいた

地元の関係者も「そんなもんあった?」と
怪訝そうな顔をすることを思えば
一部の郷土史家、舞台研究者を除いて
初めて耳にする言葉といっても道理で納得






  回り舞台の遺構(旧藤岡深見町の磯崎神社農村舞台)


私が農村舞台という存在に気がついたのは30年ほど前
当時地域の文化振興に関わる職にいた関係で
今でいう出前イベントの構想を携えて地域を回ったときに遡る

神社の境内で朽ちかけた建物に興味をもって近づいてみると
板敷きの真ん中に円形の形をした切り込み
左右には鳴ものの所作台らしきものがあり
これはただごとではないと
知人の郷土史家に尋ねたのが最初

以来折にふれて民俗文化遺産としての重要性を訴えてきたが
ようやく機が熟したというのが実感






  作品集の制作のため六所神社農村舞台で公開した
  モダンダンスの野々村明子さん
  現代フルートの真野利郎さんとのコラボレーション(1988年)
  使用した素材:藍染甕、風船、割竹、ローソク



農村舞台の機構と概要


農村舞台と言っても
近畿や四国など西日本に多く見られる人形舞台と
中部地方から東日本に多く見られる地芝居用の歌舞伎舞台と
構造は異なるため一口に括ることはできないが
代表的な農村舞台を地元の舞台を例にとりあげてみた
(見てのとおりで、付け焼刃の説明は省略)






  市内を代表する六所神社の農村舞台(豊田市有形民俗文化財)






  農村舞台の基本的な構造
  (和泉書院刊行「農村舞台探訪」より転載)



鎮守の森の名もない
小さな舞台は身の丈の農山村の歴史



上図のような舞台機構の整った農村舞台は
国指定クラスで棟数は限られており
現存する多くの舞台は
地元の人からも忘れ去れているように
娯楽の乏しかった農山村で
年の一度の余興を楽しみに
神社の境内に建てられた拝殿兼用の小さな舞台が大半

私も威風堂々とした舞台を想像していたため戸惑ったほどだから
農村舞台を初めて尋ねる人の戸惑いが目に浮かぶが
私はそれが身の丈の農山村の歴史ということを
厳粛に受け止めたいと思っている。

余談に逸れるが、「大地の芸術祭」について
私なりに理解してきたつもりでいたが
農村舞台を回ってみて
その理解が作家の身勝手にしかずということを痛感

多分今度も同じ過ちを繰り返してしまうかも知れないが
少しでもその経験を生かすことができれば、と思っている  


Posted by かとうさとる at 20:03 | Comments(0) | 農村舞台

2010年06月27日

農村舞台アートプロジェクトの概要決まる









私に劣らずみんないい加減


当ブログでもたびたび経緯を報告してきたが
昨年秋から有志で検討を重ねてきた
農村舞台の活用方法の概要が決まった。

決まったといっても、まだ机上のプランで
私は関係者のコンセンサスが必要のため
「市制60周年を迎える来年にスタートしたらどうか」と
主張してきたが、
「何いっとるだん、やれるところからやればいいじゃん。
お金はないけど(みんな大笑)
アートのプロデュースはあんたやりん」と
八木哲也前市議会議長。

メンバーは私に劣らずみんないい加減で絶句ものだが
類は友をよぶということか。(笑い)





  小原和紙と四季桜で有名な旧小原村大坂の農村舞台


農村舞台とは農山村で神事や芸能が演じられた舞台の総称で
最近の調査によると豊田市北部を中心に79棟の舞台が現存。
長野県の南信地域、岐阜県の東濃地域、飛騨地域とともに
全国でも有数の農村舞台文化圏を形成していることが判明した。

中には文化5年の棟札の遺る中金町の岩倉神社農村舞台のように
回り舞台のある本格的な舞台もあるが
そのほとんどが忘れ去られて
廃絶の危機に瀕しているというのが実情。


オイオイみんな本当に大丈夫かよ!

アートプロジェクトの概要は
アート部門とライブ部門の二つに分け
大地の芸術祭より広いエリアに点在する
農村舞台に挑むことになった。

会期は8月29日(日)の前夜祭を皮切りに
9月26日(日)まで約1ケ月間。

独断と偏見で「やれそうな」なメンバーをチョイス。
「あんたは校長先生だから生徒の課外授業でやれば?」と私。
「いいねそれ!」とモダンアートの石川泰弘さん。
オイオイみんな本当に大丈夫かよ!


正直に言えば
まだ迷っているが
こうなったらやるしかない



急展開で話が進んでいるため
概要については印刷物ができた段階で報告するが
とりあえずプロジェクトの幕開けを自分でやることに決めた。








  私がやることに決めた旧藤岡町の磯崎神社農村舞台


なかなか手ごわい相手で
正直に言えばいろいろな意味で
まだ迷っているが
こうなったらやるしかない。  


Posted by かとうさとる at 20:59 | Comments(1) | 農村舞台

2010年06月22日

さあ明日から活動再開!




主のいないベッドの脇に
グラジオラスとアジサイを飾る







妻がひと足早く旅立ってから今日で三週間。
身の回りの品々を整理していると医療の本がドッと出てきた。






「おとうさん何をしているの」と妻が笑っているようで
私もつられて一緒に笑ってしまった。






主のいないベッドの脇に猿投窯の山田和俊さんの庭でいただいた
グラジオラスとアジサイを飾って気持ちの整理。
さあ明日から活動再開!  


Posted by かとうさとる at 01:11 | Comments(0) | らくがき帖

2010年06月16日

ワーク・イン・プログレスがピンチ














  ロープで閉鎖されたワーク・イン・プログレスの展望台


豊田市民にとって
美術館は長い間の夢だった



私ごとで恐縮だが、豊田市美術館構想が発表された当時、私は幸運にも地域の文化振興に関わる職にいたため、「美術館を考える」「私たちの美術館」「地域に根ざす美術館」をテーマにした市民レベルのシンポジウムやトークサロンをシリーズで企画し、その日が来るのを待った。





  わいわいトーク「私たちの美術館」のチラシ(1992年10月)









  文協創立50周年記念誌に「地域に根差す美術館」を特集(1995年)






  当時トヨタ自動車のデザイン部にいた
  吉田稔さんが描いた建設中の豊田市美術館(1995年4月)







  豊田市美術館竣工(1995年11月)



例によって前置きが長くなってしまったが
本題に入る前に「豊田市美術館に対する市民サポーターとしての
私の立ち位置を説明しておいた方がいい」と判断したためで
ご容赦いただきたい。




1999年
川俣正のワーク・イン・プログレスが
豊田市美術館ではじまった
私は神さまから「ご褒美をいただいた」と
一人で祝杯をあげた




さて、本題だが、豊田市美術館の重要なコレクションの一つに
川俣正のワーク・イン・プログレスがある。

ワーク・イン・プログレスは、川俣のライフワークともいえるアートプロジェクトで、構想が発表されたとき、私は「ついにここまできたか」とカルチャーショックを受けたことを今も鮮やかに覚えている。1999年、そのワーク・イン・プログレスが豊田市美術館ではじまった。私は神さまから「ご褒美をいただいた」と一人で祝杯をあげた。

本展は、川俣が豊田市の風土をリサーチして構想したプランを、実際に現場で制作するという長期プロジェクトで、1999年のプランのプロポーザルにはじまり、2000年の現場制作、2001年のシンポジウム、2002年のワークショップ、2004年のワーク・イン・プログレス豊田と続いた。

端緒となったプランのプロポーザルは、建築でいえば設計図、演劇でいえば台本にあたるもので、川俣は先の大地の芸術祭でも「インターローカルネットワークセンター」で、アートプロジェクトのアーカイブに永遠の命を与えたように、このときも模型や写真パネルを使って、簡素で他に比類のない美しいインスタレーションでプランに命を与えた。


シンポジウムで川俣の話(真意)を
よく聞いておけばよかったと反省



美には何か恐ろしい罠が仕掛けられているというが、風のように自由で爽やかなプロポーザルに包まれていたとき、私はいいようのない不安に襲われた。その不安はシンポジウム、ワークショップ、現場制作と進む中で、次第に確かな形として立ち上がってきた。ボールは川俣から市民の側に投げられたからである。


メディアは、参加者が自主的に活動を進めていくプロジェクトに成長したと、ヨイショしたが、偏りを承知でいえば、私にはみんなでアートのまねごとをしているとしか思えなかった。常設作品の宿命でプランはいたるところに、安全性という名の補強が加えられ、作業を見ていた私には似て非なるものとしか思えなかった。川俣のことだから、もっと深い意味があるはずで、シンポジウムで川俣の話(真意)をよく聞いておけばよかったと反省しているが、後の祭り。


ワーク・イン・プログレスに絹の涙雨


最後に批判めいたことを述べてしまったが、展望台の愛称で呼ばれ木製の構造物は、美術館の駐車場脇の木立の中で時を刻み現在に至っているが、地方紙の片隅の記事を見て驚愕。現場に急いだ。そういえば妻が病に倒れたことから、しばらく美術館にも行っていないことを思い出した。





  新三河タイムスの記事






  現場に到着
  絹のような涙雨がやむこともなく降り続いていた






  正面に回ると痛々しさに怒りが






  どこが危険なのかわからないため看板に近づくと






  「ささくれが刺り危険です」の文字に唖然






  最初に制作されたベンチ



覚悟のない美術館はいらない


ワーク・イン・プログレスのシンポジウムで、当時の学芸課長は「木製の作品を野外に設置することは、コレクションの恒久性という意味でいえば疑問」というクレームがあったが、「プランに基づいて再制作することができると話をして、どうにか予算がついた」という意味の説明を加えた。

美術館も大変ということを言外に言いたかったのかもしれないが、質疑応答で私は「川俣作品は人間の命と同じで二つとないもので、再制作は作品の冒涜」という意味の疑問を呈した。

私たちは作品を生み出す現場には何度も立ち会ってきたが、作品が消滅に向かう現場に立ち会うことはなかった。いまワーク・イン・プログレスは、川俣から離れて土に還る準備をはじめたところで、私はその姿を美しいと思う。

美術館側の対応は、市民からのクレームによるものと想像するに難くないが、いま、ここで問われているのは、ワーク・イン・プログレスの安全性でなく、美術館の覚悟そのもので、覚悟のない美術館はいらない。  


Posted by かとうさとる at 00:59 | Comments(0) | アートの現在

2010年06月12日

どうせ都市の祝祭を狙うならそのぐらいしないと










ワールドカップ南アフリカ大会が開幕
何事もなければいいが…









朝日新聞より転載


ワールドカップ南アフリカ大会が開幕。何事もなければいいが…。
この南アフリカとベルリンの壁崩壊後のドイツを追ったドキュメンタリー番組を見たことがあるが、今でもその衝撃を忘れることができない。



この時代ファッションは
ピークを迎えていた


番組は、はじめに凄惨な銃社会の南アフリカを描いた。そんな国に逃れてくる隣国の難民。アパルトヘイト後の混乱と見過ごすことのできない文明破壊に、絶望してチャンネルを切り替えようとしたしたとき、番組はベルリンの壁が崩壊したドイツに切り替わった。

ダイナミックに生まれ変わるベルリン。番組はそんな新生ベルリンで大回顧展を開催した三宅一生を追った。一瞬天岩戸が開いたと思った。前衛がこんなにもキラキラして希望に輝いているシーンを後にも先にも見たことがない。才能が時代を開くのか、時代が才能を求めるのか知らないが、この時代ファッションはピークを迎えていた。




出演者が山本寛斎にオマージュのパフォーマンスを披露


話は飛ぶが、過日のNHKザ☆スターは、この三宅一生と並ぶファッション界の雄、山本寛斎をとりあげた。目を見張る色彩と装飾で70年代から世界を驚かせてきた寛斎。私はかねてから寛斎ファッションの原点は、南北朝時代に活躍した佐々木導誉の婆娑羅ではないか、と思ってきたが、12万人を動員したというモスクワ「赤の広場」のスペクタクルなショーや、戦国武将の華麗な甲冑を取り入れたショーを見て、確信に代わった。


この国は本物の才能の評価と
使い方を知らないのではないか


前置きに大半を費やしてしまったが、三宅一生と山本寛斎。すでに十分評価されている二人を例に挙げても意味はないかもしれないが、昨今、この国は本物の才能の評価と使い方を知らないのではないか、もしくは間違った評価と間違った使い方をしていてるのではないか、という気が頓にしてならない。(僻んでいるのではないので間違いのないように)

卑近な例でいえば開幕が迫っている都市の祝祭をテーマにした「あいちトリエンナーレ」。すでに采が投げられているため後戻りできないが、美術からオペラ、演劇、パフォーマンスと多岐にわたるトリエンナーレを芸術監督の建畠哲(国立国際美術館長)ひとりにゆだねるのは酷。祝祭のプロデュースと興業としてのマネージメントは別の能力で、山本寛斎の破天荒なプロデュース能力と、劇団四季を成功させた浅利慶太のマネージメント能力を使わない手はない。

どうせ都市の祝祭を狙うなら
そのぐらいしないと。
後の祭りだが、残念!
  


Posted by かとうさとる at 02:54 | Comments(0) | トリエンナーレ

2010年06月09日

桃の出荷は一週間程度遅れそう


市民活動家はリアリスト

年越し派遣村の湯浅誠の義憤とメディアを巻き込んだ行動力を見ていると、市民活動家こそ今求められている本当の意味での政治のプロだと思う。そんな市民活動家からスタートした菅さんが新しく首相に就任した。いささか賞味期限が切れたという印象もぬぐえないが、なんでも新しいものを欲しがる日本人の悪い癖で、ここはしたたかなリアリストに賭けるべきではないか。

そんな菅さんがかかげたスローガンの一つに「最小不幸社会」がある。「不幸」の原因をできるだ取り除き、不幸を最小に抑えるというもので、「ネーミングが暗い」と揶揄する幸福ボケのアホもいるようだが、自殺者が三万人を超えるというこの国の異常な現実を見れば、まっとうな政治家の感覚で、エールを贈りたい。

思わぬところで落とし穴

余談に逸れたが、そろそろ社会復帰しなければ、と思った矢先にぎっくり腰になってしまった。行き付けの山中接骨院に診てもらうと「二、三日は安静にしとらんといかんよ」と脅されてしまった。ひとり暮らしというのは、思わぬところで落とし穴があるようだ。








久しぶりに空を見上げたら怪しい雲行きになってきた


桃の出荷は一週間程度遅れそう





桃農家は袋をつけるのにつれ大忙し。
「かとうさん手伝ってよ」と桃名人の林さん。
「猫の手にもならんけどよければ」と私。
「もういい」と林さん。
お邪魔しました!
  


Posted by かとうさとる at 01:32 | Comments(0) | とよた風土記

2010年06月07日

バックアップしたはずのデーターがない


こんなことはMrマリックでも
プリンセス天功でも絶対不可能!


パソコンをメンテナンスに出すとき、最悪の事態に備えてデーターのバックアップした。案の定メーカーのサービスセンターから「パソコン本体のハードを取り換える必要があるため、データーを消去するがいいか」と確認の電話。「バックアップしてあるから了解」と私。

問題はそのあとで、帰ってきたパソコンをセットアップし、バックアップしていたデーターを再生すると、バックアップしたはずのデーターがない。いけばなの資料や、国内最大規模となった市民野外劇の制作、書籍の編集など、これまで積み重ねてきた膨大なデーターで、今の私にとっては命の次に大事なソフトで、呆然自若。

ちなみにバックアップしたタイトルは残っているのに、中身がメンテから帰ってきたパソコンのデーターにすり替わっている。こんなことはMrマリックでも、プリンセス天功でも絶対不可能!

何度再生しても答えは同じで狐に包まれたよう。妻が突然逝ったのも未だ信じることができないが、夢なら覚めてほしい。





気分転換に近場の旅行でもしようかな
(朝日新聞より転載)


(追記)
私の操作ミスでバックアップしたのは目次のみということが判明。
原因は私が横着して一括でバックアップしたためとのことで、絶句!


  


Posted by かとうさとる at 04:23 | Comments(0) | らくがき帖

2010年06月04日

とりあえず何かを食べなければ


「ありがとうおかあさん幸せでした」のブログを見た息子から、出棺の写真について「おかあさんは喜ばないと思うよと」電話。私も感傷に流されていたと反省。正直にいえば、あの写真を見るたびに涙がとまらないため、なんとかしなければ…、と思っていた矢先で「わかった」と自分。そんなわけで写真をカサブランカに差し替えた。ご容赦を。


なんだか精進料理みたい





とりあえず何かを食べなければ。左は炊き込みご飯、右は見ての通りの漬物、上はヨーグルト。これまでは妻が栄養管理をしていてくれたが、これからは自分で考えなければ…。それにしても住む人のいない家、食べる人のない料理のなんと虚しいことか。  


Posted by かとうさとる at 02:59 | Comments(0) | らくがき帖

2010年06月01日

ありがとうおかあさん 幸せでした











おばあちゃんへ




在りし日の妻早苗





妻早苗 2010年5月30日午後0時35分永眠



なき妻早苗に捧ぐ





先の大地の芸術祭の手土産で
妻が一番喜んでくれたのが津南のカサブランカだった
私が「元気になったら今度は連れていくから」と言うと
嬉しそうそうな顔をした





在りし日の妻早苗



ありがとうおかあさん
幸せでした


草木に神が宿るのを見たこの国の民は
やがて海をわたってきた仏さまや異国の神さまをも
わけへだてなく受け入れた

私の妻早苗がエホバに導かれたのも
心やさしい名もない民の証で
私はそんな妻を愛おしく
そして誇りに思う

ありがとうおかあさん 
幸せでした








  


Posted by かとうさとる at 15:28 | Comments(3) | らくがき帖