2013年01月11日

とよた大橋いまむかし









オバサン連はみんな丈夫


昨日は吟詠ミュージカルに向けた吟舞夢舞台の役員会と
衆議院議員八木哲也さんを囲む新年会のハシゴ

八木さんの新年会は
みんな文化協会当時からの旧知のメンバーで
さながら同窓会のようなノリで
イイ雰囲気で
時間の発つのを忘れてしまった

ニ次会、三次会と流れるとさすがにメンバーも
一人帰り二人帰り、私も帰ろうとしたら
「もう一軒行こう」と民謡協会の村松さん

さすがに、この頃となると足元もおぼつかなくなって
店に上がる階段でコケてしまった
気の毒?なのは村松さんで
三味線を抱えたまま
私の下敷きで真っ青!

朝、心配になって電話したところ
「足をすりむいただけで大丈夫!」
とのことで安心(?)したが
オバサン連はみんな丈夫




余談に逸れたが
ウォーキング四日目は
黒川紀章の代表作
とよた大橋を歩く








豊田市美術館テラスから見たからみた
とよた大橋と豊田スタジアム(下の写真を参照)











とよた大橋と豊田スタジアム(右)



亡くなったメタボリズムの建築家黒川紀章の代表作というと
ほとんどの人が中銀カプセルタワービルや新国立美術館を挙げるが
私は文句なしに「豊田スタジアム」と「とよた大橋」を挙げる

ちなみに吉田俊英豊田市美術館長も同意見で意気投合したが
建築の専門家で「豊田スタジアム」と「とよた大橋」を挙げた人は皆無
彼らは東京の建築しか見ていないのではないか




とよた大橋いまむかし









文化協会の50周年記念誌の表紙に描かれた建設中のとよた大橋
描いたのは春陽会の田中英明さん(1995年)


  


Posted by かとうさとる at 13:35 | Comments(0) | アーカイブ

2012年12月24日

豊田市美術館の青木野枝展今日で最終日





芸術新潮12月号
アートニュースから



豊田市美術館と名古屋市美術館連携企画として
この秋のアートシーンで話題になった
「青木野枝|ふりそそぐものたち」が最終日を迎えた






芸術新潮12月号アートニュース/豊田市美術館の展示




芸術新潮12月号アートニュース/豊田市美術館の展示
背後の歩く人物から作品のスケールを想像してください




芸術新潮12月号アートニュース/豊田市美術館の展示





芸術新潮12月号アートニュース/名古屋市美術館の展示




青木野枝展については
このブログでもたびたび取り上げたため
説明は省略。今回は少し角度を変えて
豊田市美術館のいま昔を簡単に紹介したい


はじまりは七州城





豊田市教育委員会発行「豊田の文化財」より転載


市指定「七州城図」は
ロンドンで霧の画家として名声を博した牧野義雄の兄で
挙母藩士族の牧野敏太郎が明治20時代に描いたもの

七州城の名は三河(三州)・信濃(信州)・尾張(尾洲)・美濃(濃州)
伊勢(勢州)・近江(江州)の七か国の山々が望めたということに由来

図の中央の小高い山が七州城、中央左に隅櫓が描かれている
さらにその左に白く描かれているのが掘の役割を果たした蓮池

豊田市美術館を図の上に思い描いてみると
ぴったり重なるはず(あとは各自の想像力にお任せ)







童子山小学校百年誌より転載


明治になると挙母藩は挙母町となり
七州城の跡地に建てられたのが
私が通った中小学校(現在の童子山小学校)

写真は昭和30年に生徒の人文字で描いた校名で
ワルガキ仲間がみんな空を見上げて
ぶつぶつ言っていたのを覚えているがカワイイもの

1995年、移転した小学校の跡地に建てられたのが豊田市美術館で
写真の左の石垣は現在の隅櫓で位置関係がよくわかるはず







建設中の豊田市美術館(1994年)
旧文化協会創立50周年記念誌の座談会
「地域に根差す美術館」に収録したもので吉田稔さんに挿絵を依頼
私の部屋のどこかにこのときの資料(原画も)があるはずだが
探してもみつからない







上のスケッチとほぼ同じ場所から撮った豊田市美術館







遠い異国の地で何を思うか
ヘンリー・ムア「座る女:細い首」の背中







校庭に中小学校の人文字を描いてから60年近い歳月が流れた
当時の田んぼや畑はビルの景色に代わったが
美術館のテラスから眺める山並みは昔のまま

さあ、もう一度リセットして頑張ろうかな  


Posted by かとうさとる at 21:40 | Comments(0) | アーカイブ

2012年12月01日

生物多様性の時代をひらいた児ノ口公園




落ち武者は
薄の穂にも怖ずというが
いまの私は電話やメールにも
ドキッ!



何でも安請け合いするバツで
年内はデスクワークで缶詰になりそう
いいトシしてサイテイ

まあ、こんな事はどうでもいいが
昨日は三河印刷の稲葉さんと寺本デュオリサイタルの
プログラムの打合せをした帰路
児ノ口公園の紅葉が目にとまってクルマを停めた







一見して都心に残されたサンクチュアリ、里山のように見えるが
この都市公園がグランドやプールのあったスポーツ公園を
多自然工法でより自然に近い里山に作りかえたと知ったら
驚く方もいるのではないか







児ノ口公園は豊田市駅から徒歩で10分ほど
もとは国道248号に面し市内で初の市営プールや
草野球のグランドが整備されたスポーツ公園







施設の老朽化や手狭になったこともあるが
1990年代半ばに子どもたちの歓声が聞こえるプールや
野球ができるグランドを潰して自然公園を作るという
発想をした市民と市職員と決断した市長に拍手(パチパチパチ)

当時事情を知る私でも理解不能だったから
ドイツなどヨーロッパの近自然公園を知る一部の関係者以外は
ほとんど「もったいない」と思ったことは想像に難くない







経緯は省くが
暗渠になっていた昔の里川(五六川)も地上に復活
野鳥やホタルも戻ってきた児ノ口公園は
2004年土木学会デザイン賞を受賞
生物多様性の時代をひらいた都市公園モデルとして
いまも全国各地から視察に訪れる人が絶えることがないそうだ



児ノ口公園は
衣の君落別王が眠る
パワースポット
 

ここまで書くと
児ノ口公園=近代的な自然公園を
イメージする人もいるかも知れないが
今日のサプライズはこの公園の下に
衣の里のパワースポットが
眠っているという都市伝説のオハナシ

児ノ口公園の西の端に
児ノ口公園の名の由来になった古い社が祀られている

祭神は第11代垂仁天皇(すいにんてんのう)の皇子で
古事記に「三川衣君」(みかわころものきみ)の祖と
書かれている落別王(おちわけのみこ)

いまも衣浦湾(三河湾)の名が残るように
伝承によると古事記が著された時代、衣の里は広く
この地を開いて治めていた落別王は
碧海西部、知多東部を見て回っている途中に
児ノ口公園のあるこの地で亡くなったとのこと







どこにでもある都市伝説の一つだが
東日本大震災で民間伝承の重要性が明らかになったように
私たちは先人が語り継いだ民間伝承に
もっと耳を傾けてもいいのではないか

写真は落別王の墓とされる前方後円墳の上に祀られた
衣の君落別王命陵(児ノ口神社社伝)



こちらは参考までに






コピーは亡くなった郷土史家の若子旭さんが編纂した
豊田市教育委員会発行「資料に見る明治・大正・昭和のあゆみ」
より転載したもので、記事は加茂時報(現在の加茂タイムス)







現在の児ノ口公園を第三次公園
昭和30年代のスポーツ公園を第二次公園とすると
第一次児ノ口公園といえるもので
私は挙母新八景の一つとして描かれたのを
見た記憶があるが定かではない










  


Posted by かとうさとる at 14:40 | Comments(0) | アーカイブ

2012年10月07日

とよた今昔/昭和30年代初頭の挙母市街











市販の刊行物をもとに
「とよたの今昔」を辿る



昔話をするようになったら
オシマイというが
私は幸運にも職をとおして
多くのことを学ばせていただいた

写真もそんなジャンルの一つで
「とよた今昔写真展」
文化でたどる「とよたの戦後50年展」の
企画に関わった

市民に写真の提供をよびかけ
市井の営みを
「史」として観測しようという試みで

提案したのは
当時豊田ホームニュースの記者で
写真家の故有木省悟さん
監修を郷土史家の故若子旭さん
日本を代表する山岳写真研究家で
ジャーナリストの杉本誠さんに依頼した

当然ながらこれらの写真は
公的なもので今は手元にないが
市販の刊行物をもとに「とよたの今昔」を
辿ってみようと思う

と、言っても
まだ現在の写真を撮ってないため
写真が撮れた段階で随時公開するため
ご容赦いただきたい




高度成長時代前夜の挙母市街






写真で見る豊田・加茂の100年(郷土出版社)より転載


本のクレジットによると
写真は昭和31年(1956)2月撮影
アングルから月見町の枝下用水の
堤防から撮ったものと思われる


写っていないが
写真の右で加茂製糸
(現在の産業文化センターの場所)
が操業するなど
失われた養蚕の町の面影を
俯瞰する貴重な証言記録の一つ


手前の田んぼの中に見える家並みは
当時「観月境」
(31年5月売春防止法の公布により廃止)
と呼ばれた遊郭

写真中央の杜は若宮神社の大楠
その右、小さく見える杜は挙母神社
遠方の二つの山は六所山と焙烙山

写真が撮られたこの年7月
政府は経済白書を発表
「もはや戦後ではない」と指摘

昭和34年(1959)1月
挙母市は豊田市に市名を変更
自動車の都市に向けて大きく駆けだした





同じアングルから撮った
現在の豊田市街






若宮神社の大楠と
六所山と焙烙山の三点を結んで
写真の場所を探したが
枝下用水の堤防下まで家並みが続いて
若宮神社の大楠が見えない
辛うじて撮れたのがこの一枚

遠くに
豊田スタジアムの尖塔が小さくみえる
その手前に黒く見えるのが
若宮神社の杜
  


Posted by かとうさとる at 23:21 | Comments(0) | アーカイブ