2009年11月03日

いけばなに独自の世界をひらいた谷口雅邦さん


生き残りをかけた
国際展に最もふさわしい作家


先に「現代いけばな人物名鑑」で大坪光泉さんを紹介したとき、「もし私がヴェネチア・ビエンナーレ日本館のコミッショナーであれば、現代いけばなの旗手と言われる何人かの作家を推す」と書いた。その一人が、A.C.C.フェローシップを受けニューヨークに滞在するなど、現代いけばなの国際化の道を拓いた谷口雅邦さんである。私が谷口さんを推すのは、谷口さんの日本という風土(アニミズム)に根ざした鮮烈な仕事は、古くてもっとも新しい仕事であり、生き残りをかけた国際展の切り札となると思っているからである。




白米のインスタレーションの公開制作(龍生会館スタジオ)1985年





白米のインスタレーション(龍生会館スタジオ)1985年



いわき市立美術館「もうひとつの美術館」(1985年)で発表した「白米のインスタレーション」について、企画者の南嶌宏(当時の学芸員で第53回ヴェネチア・ビエンナーレ日本館コミッショナー)さんは、「日本人にとって特別の存在である米を床に散華することについて、いけばな界からクレームがくることを覚悟していたが、美術サイドからクレームがきたのは意外だった」と述懐した。(私の質問に対して)今なら笑い話だが、谷口さんの先進性を示すエピソードとして理解いただけるのではないか。





玄米のインスタレーション(真木画廊)1987年





「トゥ・ザ・ディプス」展(青山スパイラルガーデン)1987年





カインドウウェア主催ビル・ロビンソン プレパーティーディスプレイ 1988年



(注釈)
谷口さんの仕事については、アートフォーラム谷中、資生堂・ザ・ギンザ・アートスペースなど衝撃を受けた個展は枚挙にいとまがないため、「コンテンポラリーいけばな」Ⅱ(婦人画報社)に収録された作品を転載した。「コンテンポラリーいけばな」は、婦人画報社が日本を代表する現代いけばな作家を三巻に分けて紹介したもので、このブログの作成にあたってページを捲ったが、現代いけばなの到達点が見事に記録されており、婦人画報社の見識と英断に感謝。今後こうした歴史的書籍は諸般の事情で発行不可のため、古書店で見つけた方は是非入手をお薦め。




「コンテンポラリーいけばな」Ⅱ(婦人画報社)



谷口雅邦(たにぐちがほう)
青森県弘前市に生まれる。龍生派家元吉村華泉に師事。テキサス工科大学、アンチ・ドクメンタ-インサイド-国際美術展、国際芸術センター青森より特別招聘されるなど、国際的に活躍。現在に至っている。

天使の実 谷口雅邦展
会期:2009年11月30日(月)~12月12日(土)12:00~19:00
会場:巷房(3F)巷房2・階段下(B1F)
東京都中央区銀座1-9-8奥野ビル3F・B1F
☎03-3567-8727


  


Posted by かとうさとる at 03:11 | Comments(0) | 現代いけばな人物名鑑

2009年10月16日

現代いけばなを拓いた大坪光泉さん











民俗性と不易流行という
同時代性を併せ持つ現代いけばな


もし、私がヴェネチアビエンナーレ日本館のコミッショナーであれば、現代いけばなの旗手といわれる何人かの作家を推す。理由は日本という固有の民俗性と不易流行という同時代性を併せ持つのは、サブカルチャーの現代いけばなをおいてないからである。

中でも第一に推すのが現在北京に在住している大坪光泉さんで、大坪さんの他に比類のない、風のようなしなやかな発想と確かな仕事を世界に発したいと思うのは、私一人ではないのではないか。

次はイベントで、全世界のメディアを招いたオープニングは、鈴木五郎の巨大な焼き物を使った婆娑羅の大茶会で決まりだ。アニメ、ファッションからオタクまで現代の風俗の粋を集めた破天荒なデモストレーションで、サンマルコ広場まで花魁道中にならって、顔見せ道中をしてもいい。どうせやるならこのぐらいやらないと面白くない。

余談に逸れたが、大坪さんは未だ正体のわからない怪人二十面相のようなもので、一筋縄ではいかない。そんなわけでエピソードと作品の一部を紹介して、あとは想像力を働かしてもらうしかない。


現代いけばなを拓いた大坪光泉さん




70年代のはじめ、私は地方で新しいいけばなの方向性を模索していた。そんなとき偶然見つけたのが、「週刊平凡」に掲載されたこの記事で、理解はできなかったが、何故かわくわくしてスクラップしたことを昨日のことのように覚えている。




龍生展のゴミの1/5 いけばな龍生展(東京上野松坂屋)1971年

「いけばな批評」だったと記憶しているが、同人の座談会で、現代いけばなの端緒となった出来事として「龍生展のゴミの1/5」を取り上げた。「いけることからも、つくることからも解放された、行為としてのいけばなのエポックをしるした」というのがその理由で、納得。




私が最も衝撃を受けた「植物人間」(1978年「いけばな龍生」11月号)





名古屋市文化振興事業団が主催した「表現としてのいけばな」は、一作家一部屋の個展形式で、現代いけばなの到達点をしるした画期的ないけばな展となった。企画したのは美術評論家の三頭谷鷹史さん、石田流家元石田秀翠さん、私かとうの三人で、人選を一任された私は、大坪光泉さん、現在はタレントとして活躍している假屋埼省吾さんをはじめ10人のいけばな作家に依頼。「表現としてのいけばな」を体現するテキストとして「植物人間」を選んだ。




化粧する大根(1989年)





リンガジャポニカ(1991年)





制作スナップ 「嵐の金曜日」を歌いながら(1993年)





制作スナップ 「嵐の金曜日」を歌いながら(1993年)



大坪光泉(おおつぼ こうせん)
栃木県足尾銅山の町に生まれる
1960年より龍生派、吉村華泉氏に師事。
写真は「現代のフラワー・アーティスト大坪光泉」より転載。
現在北京在住。「Fの会」同人







  


Posted by かとうさとる at 00:14 | Comments(0) | 現代いけばな人物名鑑

2009年03月15日

いけばなのプロフェッショナル 日向洋一



小白倉いけばな美術館常設展で制作中の日向洋一さん


日向洋一 ひなたよういち

1943年、草月流の重鎮として活躍した日向洸二の長男として旧満州大連市に生まれる。植物の外側からは見えない内なる祖景をテーマにした「植物に語らせるもの」シリーズは、現代いけばなの到達点の一つとして高く評価されている。草月流「洸華会」主宰。Fの会同人。



いけばなのプロフェッショナル

手前味噌になって恐縮だが、私は「英国における日本年」の一環として現代いけばな展に関わったことがある。この企画に際して提出した作家のプロフィールの中で、ロンドン側が最も関心を示したのが日向洋一さんだった。概ね予測したとおりの反応で成功を確信したが、私が日向さんを第一に押した理由は作品もさることながら、季節の花々と戯れる小品から空間を支配するインスタレーションまで、彼の職人技ともいえるライブな制作現場をロンドンで再現させたいと思ったからである。難しい説明をしなくても、日向さんを紹介することで、いけばなの伝統と現代が回廊として結ばれると考えたからである。

そういう意味で日向さんはまぎれもなく、いけばなのプロフェッショナルであり、現代のいけばなで最も重要な一人を選ぶとしたら私は間違いなく日向さんを推す。いけばなの様式を伝承する人は数多いても、伝統と創造のたぎる「今」を次代に伝える人は、鋏一つで街角のお師匠さんを自認する日向さんをおいていないと思っているからである。


植物に語らせるもの

いけばなは、植物を用いた限りなく自由な自己表現であって、植物から発散してくるもの、語ってくるもの、訴えてくるもの、そんなものを一度自分の中に取り込み、それを再構成して表現していくものだと考えている。そこでは自由で豊かな創造の世界が広がっており、ものを創りあげるという行為が、人間だけに与えられている素晴らしい魅力溢れる行為という事を強く感じている。(日向洋一「表現としてのいけば」図録より)



ケヤキ、寒冷紗、電球|表現としてのいけばな(名古屋市民ギャラリー)
Photo山口幸一|1994年
 

この地方でかって盛んであった鯉の養殖が、先の地震で水槽が全滅し、集落のいたるところ無残な姿を曝している。傷ついた水槽の底にたまった水面には、かって元気に泳いでいた鯉に代わり、水草が異様な不気味さを放ち繁茂していた。その採取した水草を前面に出し、黄梅の暴れ枝を部屋全体に息苦しい程狂わせ、かつ天昇するかのごとく、高い天井に一気に立ち上げてみた。私なりにこの集落への思いのたけをいけあげてみた。
(日向洋一「小白倉いけばな美術館」図録より)


江口藤夫邸|4m×4m|雲南黄梅、ガイミアリリー、水草|鉄水盤(径180)
越後妻有アートトリエンナーレ2006「小白倉いけばな美術館」Photo尾越健一|2006年

  


Posted by かとうさとる at 02:53 | Comments(0) | 現代いけばな人物名鑑

2009年03月11日

人物名鑑2 花もひとも粋な自由人 吉村 隆






吉村隆 よしむらたかし

1931年4月、龍生派二代家元吉村華丘の三男として東京に生まれる。生まれつきのスポーツマンとしての身の軽さと江戸っ子の面倒見の良さと人徳で、集団オブジェ、現代いけばな懇話会、8人の会など現代いけばなに大きな影響を与えた運動を支えた。近年は体調を崩して周りを心配させたが、越後妻有アートトリエンナーレ2006「小白倉いけばな美術館」に参加するまでに回復。隆ファンを喜ばせた。兄は龍生派吉村華泉家元で人もうらやむ仲の良さは有名。(社)龍生華道会副会長、Fの会同人。


花もひとも粋な自由人

私が吉村隆さんに初めて会ったのは、80年の熱い夏の日、お茶の水の「いけばな芸術協会」(主婦の友社ビル)で行われた「いけばなEXPO81とよた」の準備会だった。工藤昌伸先生が「みんなに説明した方がいい」とセットしてくれた会で、会が終わったあと「よかったら駅まで乗っけってやるよ」と声をかけてくれたのが吉村隆さんだった。

車に乗ると「駅はどこがいい、工藤が面白い男が出てきたというのでおマエさんに初めて会ったが工藤も見る目がないねェ」と言って笑った。一瞬ムッとしたが、その一言で構えていた緊張感がスーッと消えて気持ちが楽になった。

東京の会のあとなど「時間あるかい、ちょっと飲んでいくかァ」と居酒屋によく誘ってもらった。気がつくとみんな一緒で「あいつの花は良くないねェ」「あいつはダメだなァ」「ところでカトー、おマエさんの花もよくネェな ハハハ」と「花」を肴に時間の経つのを忘れた。

正直に白状すれば、当時吉村隆さんの「花」の本当の良さがわからなかった。根本を端正にまとめた美しいフォルムを花の美と信じていた私にとって、吉村隆さんの根本がバラバラで草木が勝手になびく「ゆるい花」はヘンな花にしかみえなかった。


私の花の常識が音を立てて崩れた

「いけばなEXPO81とよた」のシンポジウムで、パネリストが会場で「私の好きな一点」を選びその理由を解説するコーナーがあった。美術評論家の峯村敏明が長井理一の作品を「この人は初めて見たが天才だ」と、とりあげるなど、刺激的な作家論が展開した。

亡くなった千羽理芳先生は吉村隆さんの壺に活けた杉の投げいれをとりあげた。私は偶然活け込みの一部始終を見たが、魚河岸で巨大な本マグロを解体するように杉の束を手際よく解いたと思ったら、もう終わっていた。傾いた壺からはみ出た杉が生き物のようにゴロンと横たわっていた。人垣ができてきたためその場を立ち去ったが、私の花の常識が音を立てて崩れていくのがわかった。何年かたったあと、中日新聞の記者が「かとうさん、今だったらわかるけどあのときは何がなんだかわからなかった。もう一度見たいけど残念だわ」と述懐したが、ほとんどの人が同じような思いをしたのではないか。

「龍生派の古典はしないの」との問いに「オレがやってアニキより上手かったらアニキ困っちゃうもんな」と笑ったが、吉村隆さんは、花もひとも粋な自由人で、こんな人がいけばなにいることが嬉しくてたまらない。




ななかまど、むらさきしきぶ、野いばら|陶水盤|いけばな龍生展(上野松坂屋)
谷口皓一撮影|コンテンポラリーいけばなⅢ(婦人画報社)より
  


Posted by かとうさとる at 02:45 | Comments(0) | 現代いけばな人物名鑑

2009年02月17日

いけばなとは彼岸と行き来する通い道 下田尚利





下田尚利 しもだたかとし
1929年東京都生まれ。早稲田大学芸術学科卒。「新世代集団」、「集団オブジェ」、「いけばな批評」同人などをはじめ、前衛いけばなの時代から現代まで、いけばな界に大きな影響を与える。著書に「なぜ花をいけるか」など。大和花道家元。「Fの会」代表。


民俗を源流とする
同時代性いけばなの到達点


私は「いけばなの現在を一人でも多くの人に伝えたい」とブログをはじめた。力量不足でまだ端緒にもついていないが、私が密かにライフワークにしたいと思っているのは、工藤昌伸(いけばな研究家)、北條明直(華道大学学長)、重森弘淹(写真評論家)など、現代のいけばなを確立した先学を「史」として顕彰することで、この発心はいまもぶれていない。

そんな畏敬する先学の一人で、現在も第一線で活躍しているのが下田尚利先生である。美術評論家の三頭谷鷹史さんは著書「前衛いけばなの時代」の冒頭で、「彼は前衛いけばな運動を創出した当事者の一人であり、工藤昌伸、重森弘淹、勅使河原宏とともに新世代集団を結成し、いけばな界の中で左翼的な前衛運動を展開した。(中略)生の花を使った作品は、そのすべてが消滅していることもあって、体験世代の優れた観者が語る言葉がきわめて重要であり、その点で下田は最良の語り部である。」と述べているように、かけがえのなさにおいて、下田先生は中川幸夫と双璧と目されている。

下田先生の凄いところは傘寿を迎えてなお旺盛な制作意欲が衰えないことで、越後妻有アートトリエンナーレ2006「小白倉いけばな美術館」で発表した「風の栖」の鮮烈な衝撃は、いまも脳裏から離れることがない。偏りを承知でいえば「風の栖」は、民俗を源流とする同時代性いけばなの到達点をしるしたもので、私は「Fの会」の同人の一人として、歴史的瞬間に立ち会うことができた幸運を思わずにはいられない。


「風の栖」下田尚利

片桐邸、築300年の大黒柱と奥の仏壇をとりこんで、私が何回か続けている「風の栖」をと考えた。「栖」を通り抜けたところで仏壇に出会い、みんなにお詣りしてもらおうと、仕事を進めているうちに、いろんなことがわかってきた。「いける」という行為は、彼岸からのサインである「花」を通して、ひたすら彼岸とやりとりを続けることだし、「いけばな」とは、彼岸と行き来する通い道なのだと、改めて気がつき、深く納得した。(小白倉いけばな美術館図録より)


素材:桃、稲、雨戸、布、和紙、ひめしゃら、えごの木、柳、梅、みやまかいどう、ひまわり、洋種山ごぼう|場所:新潟県旧川西町小白倉「片桐喜久男邸」|広さ:24畳|撮影:尾越健一









  


Posted by かとうさとる at 00:23 | Comments(0) | 現代いけばな人物名鑑

2008年11月27日

現代いけばなのカリスマ 千羽理芳先生逝く











千羽理芳先生(小白倉いけばな美術館図録より)

さる11月10日の朝、千羽理芳先生から携帯に電話が入った。確かに千羽先生だが声が別人のように細くて聞き取れない。「いろいろお世話になりました・・・」そんな風にも聞こえた。聞き返す間もなく電話は切れていた。胸騒ぎがして下田尚利先生に電話を入れた。「実は入院して連絡がとれないため心配している」と下田先生。26日の朝、その下田先生から「千羽先生がなくなった」と説明を受けた。私はまた恩返しができないまま大切な人を一人失った。



現代いけばなについて、美術評論家の三頭谷鷹史さんは私の作品集の解説の中で『1970年前後から登場してきたいけばな運動とその作品を一般に「現代いけばな」と呼んでいる』と定義している。1969年10月、お茶の水の日仏会館で開催された新しいいけばなの創造をめざした「現代いけばな懇話会」を端緒とした史観だが、「懇話会」前と後のいけばなの流れを概観してみると、その指摘の正確さが理解できる。

この現代いけばな界の黎明期に彗星のように登場し、現代いけばな運動を牽引したのが古流松應会家元で日本いけばな芸術協会副理事長の千羽理芳先生だった。流派を横断したこの運動は、雑誌「いけばな批評」の創刊(1973年)と連動し、全国各地で出口を求めて悶々としていた若い作家たちに勇気と希望を与え、いけばなは新たな時代の扉を開いた。

11月25日、その千羽理芳先生が心不全のため逝去した。現代いげばなはこれまでも工藤昌伸、重森弘淹、北條明直というかけがえのない精神的支柱を失った。衝撃で膝が崩れたがそれでもひとつの時代の終わりとして受容できたが、千羽理芳先生の突然の訃報は道半ばで言葉もない。「植物たちの生」という言葉に象徴される植物のエロスを引きだした初期の作品から、いけばなの担い手として、日本人の精神的源流にいけばなの根源を求めた近年のインスタレーションまで、千羽先生の軌跡は現代いけばなの軌跡そのものであり、その影響力とリーダーシップは余人をもって代えることができないからである。

いまはただ冥福を祈るばかりである。合掌。



一目見て輪廻転生という言葉を思い出した千羽理芳先生のインスタレーション
|花:朴の葉、えのころ草、孔雀檜葉|Photo:尾越健一|
(越後妻有アートトリエンナーレ2006「小白倉いけばな美術館」より)



  


Posted by かとうさとる at 05:23 | Comments(0) | 現代いけばな人物名鑑