中条氏と長興寺と信長像の由来

かとうさとる

2010年01月31日 00:29












豊田市の礎えを築いた
中条氏の菩提寺






いにしえを偲ぶ長興寺山門


国指定の織田信長像で知られる長興寺は、鎌倉初期から室町末期まで衣城主(「衣」は後に本多氏が「挙母」と名を改めた)として、豊田市の礎えを築いた中条氏の菩提寺で、建武2年(1335年)、室町幕府の奉公衆の重職にあった中条秀長が、東福寺開山聖一国師の法孫、太陽義沖を招聘して創建。当時、寺域は南北約550㍍、東西約440㍍、18坊に及ぶ塔頭が建ち並び、当地における五山文化の府として栄えた。





長興寺境内に眠る中条秀長の墓




国指定の信長像の由来




国指定紙本著色織田信長像(長興寺所蔵)
豊田市教育委員会発行「豊田の文化財」より転載


中条氏は永禄4年(1561年)、織田氏によって攻め滅ぼされ、長興寺も永禄10年(1567年)、織田信長によって焼失。その後、衣城代となった信長の家臣、余語正勝が再興。国指定の紙本著色織田信長像は、この余語正勝が、信長の一周忌にあたる天正11年(1581年)6月2日、法要のため長興寺に納めたもの。描いたのは信長をよく知る京都の画家、狩野元秀。今日残されている信長像の中で最も信長の真影に近い像として有名。


室町幕府の有力大名
中条氏を支えた矢作川の水運






長興寺の東側を流れる矢作川堤防から上流を見る。右の建物は豊田スタジアム。遠方の山は猿投山。中条氏はこの矢作川に湊を造り、水運を開発。市場を設置し、衣の里に経済的繁栄をもたらした。また学芸を奨励し、猿投神社など寺社の修復を大々的に施行。多くの文化財を遺した。






同所から下流を見る。奥の赤い橋は「鵜の首橋」。鵜の首の由来は、川幅が鵜の首のように細くなっているため名付けられたもの。興味深いのは、対岸の野見側の堤防が低く作られていたことで、中条氏が治水対策にも長じていたことを伺い知ることができる。(現在は堤防改修が終了)


空を見上げると昼の月が





空を見上げると昼の月が。
家路を急がなくては(1月29日撮影)

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