2013年04月19日

ぶんかの定点観測#27 稲武に新しい風!




ぶんかの定点観測

ぶんかの定点観測は
地元のオピニオン紙「矢作新報」に月一で連載しているコラムで
今回は小田木人形座の復活に向けた動き(準備会)をとりあげた。






詳しくは本文を掲載したので省くが
5年計画で江戸時代半ばに稲武地区の小田木村に伝えられ
明治のはじめに途絶えた人形浄瑠璃を
市民の手で復活させようという草の根のプロジェクトです。

準備会では中馬街道の交流の歴史や
人形浄瑠璃を楽しく体験し学ぶ仲間を募っています。

ご一緒に未来という扉を開けてみませんか?
みなさんのご参加をお待ちしています。

詳しいことは
このブログで問合せいただければ幸いです。




小田木人形座復活へ準備会





   全国で二番目に古い「宝暦弐歳」(1752年)の紀年銘があるカシラ「文七」。
    小田木では安永(1772~1780)の頃、文蔵という人形師が現れ、
    自ら人形を作製したと言われている。




コラム原稿

稲武郷土資料館「ちゅうま」に、
県内でも珍しい人形浄瑠璃のカシラと衣装が展示されている。
江戸時代中期に地元の小田木村に伝えられ、
神社の祭礼などで奉納上演されていたが、
明治8年の「村中倹約申合せ」を最後に途絶えた
小田木人形座を伝えるもので、
昭和42年に愛知県有形民俗文化財に指定され現在に至っている。







   上の写真は小田木八幡神社の遠景。境内の人形舞台は大正の頃取り壊され
   舞台の建っていた場所は伊勢湾台風で土手が崩れて消失した。
   下の写真は、境内を通る中馬古道。
   


なぜ、この地に人形浄瑠璃が伝えられたのか?
地元の八幡神社の境内を三河と伊那谷を結ぶ中馬街道(古道)が通り、
西小田木の馬宿「門屋」に家元があったというから、
物流の要衝として出馬千疋入馬千疋を数えたという
飯田の人形ブームが、時を経てこの地に伝わったのではないか。

ただ、こうした要件であれば、阿智、浪合、平谷、根羽、武節、
足助に人形座があっても不思議ではない。
謎を解く手懸りを奥三河稲武の歴史を綴った
「炉辺夜話」(稲武町長古橋茂人著)に見ることができる。
『信州の「上古田の人形座」(国指定古田人形座)に、小田木から
カシラを買ってきたという記録がある』と記しているように、
この地が古くから人形作りの里であったというロマンと結びついて、
人形座が誕生したのではないか。




   農村舞台アートプロジェクト2012で小田木人形座の復活を願って制作した
   私のインスタレーション「人形は葦舟にのって里帰り」
   私は人形たちが人気のない真夜中に帰ってくるような気がして
   小田木人形座準備会の山田良稲さんにお願いをして灯りを燈してもらった。


いずれにしても、来歴については推測の域を出ないが、
明治のはじめに途絶えた小田木人形座を復活させようと、
この春、地元の小田木をはじめ稲武地区の有志が中心になって
小田木人形座準備会(山田良稲会長)が発足した。

調査研究からはじめて、
5年計画で小田木人形座を復活しようというもので、
人形のカシラや衣装は、伝統を踏まえて新たに制作。
人形座は、保存会形式ではなく、
公募によるオープンな劇団形式の人形座を目指すというから、
実現すれば画期的な事件になることは想像するに難くない。

財源の確保などハードルは高いが夢は生活必需品。
伝統の創造に向けた小田木人形座の準備会の決断と勇気に、
万雷の拍手を贈りたい。











  


Posted by かとうさとる at 20:05 | Comments(0) | 農村舞台