2012年09月10日

幻の小田木人形座と小田木再訪















だけども問題は秋の風
電話がない




「小田木人形座の復活に向けて」をキャッチフレーズに
農村舞台アートプロジェクト2012の開幕まであと5日

事務局からは「プログラム原稿の入稿」の催促
新聞社からは小田木の人形座について「どうなっているのか」と質問
大地の芸術祭事務局からは作品撤収の確認メール

だけども問題は秋の風
電話がない(○○のパクリ)




幻の小田木人形座






小田木人形座は江戸時代中頃小田木の地に伝えられたが
明治8年「村中倹約申合」を最後に途絶えた幻の人形座である

どのような経路でこの地に伝わったのか定かではないが
八幡神社の境内を伊那谷と三河を結ぶ中馬街道が通り
馬宿の「門屋」に家元があったというから
「出馬千疋入馬千疋」を数えた伊那谷の人形ブームが
ときを経てこの地に伝わったのではないか

人形のカシラと衣装は愛知県有形民俗文化財に指定され
今は稲武の郷土資料館「ちゅ~ま」で深い眠りについているが
私たちに「元の人形舞台に帰りたい」と
訴えているように思えてならない


写真は「宝暦弐歳」(1752年)の銘がある
小田木人形座のカシラ「文七」
全国的に見ても古いカシラの一つで
小田木人形座の起源を知る貴重な一体




作品プラン確認のため
小田木再訪







小田木人形座が奉納された小田木八幡神社の遠景

農村舞台アートプロジェクト2012で私が制作する舞台は
この神社の境内にある人形舞台跡地(左の赤いトタン屋根の建物)
今日はロケハンと地元協議を兼ねて再訪







右が社殿
左が人形舞台の客席があった場所






白いガードパイプの左が人形舞台の建っていた場所
伊勢湾台風で土手が崩れたこととその後の圃場整備で
痕跡は全て消失

右の建物は客席の廃材の一部を利用して
向きを社殿側に変えて同じ場所に立て直したもの
今回、私はこの建物を使ってインスタレーションを予定

幻の小田木人形座を題材に作品化するもので
私も初めての試み






小田木人形座保存会発行「小田木人形座」より転載






小田木神社境内を通っていた中馬街道の古道

武田信玄の有名な遠江・三河攻めは
高遠を経て伊那街道(のちに三州街道≠中馬街道)を南下
秋葉街道に入ったため
小田木まできたのか定かではないが
伊那街道は峠越の連続
こんな狭い山道を数万という兵が進んだというから
信玄も大変だ








余談に逸れたが
西小田木の旧中馬街道を下って行くと
正面に難所の伊勢神峠が迫ってくる




幻の小田木人形座の
発祥地はここ







中央の川は段戸川
川を挟んで右は旧賀茂郡足助の連谷集落
左は旧北設楽郡稲武の小田木集落

問題は左の赤い屋根の家
難所の伊勢神峠を越える馬や馬子を泊めた馬宿の「門屋」
小田木人形座はこの門屋に伝えられたもので
代々当主が家元をつとめた






馬宿「門屋」の後藤家の家系図
二代目長太夫が小田木人形座の初代






小田木人形座保存会刊「小田木人形座」
古橋克人著「炉辺夜話-奥三河の歴史-31話小田木の操り人形」の中に
『飯田の人形座に小田木から人形を買ったという記録が残っている』
という意味の記述がある

「宝暦弐歳」の銘のあるカシラ「文七」を見てもわかるように
この地に人形作りの名人がいたことは確かで
その手かがりになるのが段戸川上流に点在するという木地師の墓

この春、小田木人形座に関心を持った私は
段戸川の上流を調べたが墓がない

門屋の現当主の後藤さんに尋ねると
「可哀想だだでわしがここに集めた」と案内してくれたのが
写真の墓



小田木人形座の詳細は
史家に任せて以下省略
興味のある方は


小田木人形座のカシラと衣装は
稲武の郷土資料館「ちゅ~ま」で見ることができる

サラリと知りたい方は豊田市視聴覚ライブラリーで
「消えた伝統芸能~小田木人形座」(約10分)のCDを
貸出ししている

もう少し詳しく知りたい方は
①小田木人形座保存会刊「小田木人形座」
②鈴木和敏編「小田木村の歴史」
③古橋克人著「炉辺夜話-奥三河の歴史-31話小田木の操り人形」を
お薦め

①と②は私もコピーしか持っていないため入手は難しい
③は中央図書館で貸出し

  


Posted by かとうさとる at 23:15 | Comments(0) | 農村舞台