2011年01月07日

平戸橋は文化資源の宝庫


衣里八景に詠まれた景勝地

平戸橋一帯の景について、「衣里八景」を刊行した江戸時代後期の漢学者永田蘭泉は、村人が急流の中で漁をしている光景を抒情豊かに詠んでいる。また平戸橋一帯は勘八峡とよばれ、昭和2年には愛知県10名勝に選ばれるなど、県下でも有数の景勝地として親しまれている。

こうした山地水に恵まれた地形は、西沢真蔵が私財を投じて開削した枝下用水、前田栄次郎が造営した前田公園、越戸ダムに活かされ、近年は「民芸の渓」として日本有数の規模の民芸館も整備されるなど、今も地域の生活や産業を支えている。






平戸橋のイメージイラスト
作画は平戸橋在住の画家吉田稔さん


ざっと平戸橋について述べたが、この下にとよたの物流を支えた産業遺産が眠っていることを知る人は少ないのではないか。「土場」と呼ばれた川湊で、河口の平坂(西尾)や大浜(碧南)から舟で運ばれた海産物は、中馬の背に積まれ、遠くは信州に運ばれた。



往時を偲ぶ土場の遺構





平戸橋から川相を見るとこの橋が山地と平地を分けていることがわかる。写真の左、中ほどの川に突き出た岩のあたり一帯が川湊の終着駅、彦宗土場。その上、家が見えるあたりが百善土場。右の上、竹藪の中に眠っているのが、岩村藩が利用したという記録(岩村歴史資料館)が残る越戸土場。付近には流れ橋の遺構も。






彦宗土場の賑わいを描いた古井彦宗家の襖絵
(渋谷朗-人と仕事-より転載)






対岸のトンネルは木材を引き入れる百善土場の遺構






上流から流されてきた木材は百善土場で大きな筏に組み直され、河口の平坂や知多半島に運ばれた。(目で見る豊田・加茂の100年より転載)






百善土場の貯木場(大正7年頃)






越戸土場の場所を標した説明板






越戸土場で荷揚げされた物資は堤防に設けられた「切れ所」を通って運ばれた。写真の石柱は「切れ所」の遺構。石柱に彫られた溝は、洪水時に板を差し入れて締め切り、水を防いだ痕。また石柱の位置は、矢作川が天井川と呼ばれていた当時の河床の高さを示すものとしても興味深い。






越戸の「流れ橋」の位置を標した説明板
渡し舟に代わって流れ橋が架けられたが伊勢湾台風で流失。


幻の未来図





余談に逸れるが、私は文化振興財団文化部長の職を辞してから、2年間「平戸橋いこいの広場」の所長を勤めた。暇な(?)私に何かできることはないか、と考えたのが市制100年を目標にした平戸橋の未来図で、平戸橋の文化資源を生かした試案をイラスト入りで作成。関係者に引き継いできたが、残念ながら絵に描いた餅とお蔵入りになってしまったらしい。

写真のイラストはそんな未来図の中の1枚で、流れ橋の復元が河川法の関係で難しいため、橋脚のない吊り橋として提案したもの。作画は平戸橋在住の画家吉田稔さん。






越戸土場のあった一帯は「お釣り土場」の通称からもわかるように
冬の寒ハエにはじまり、ウグイ、コイ、アユと最高の漁場として有名。
また河岸林は藪椿が群生。以前は大きな枝ごと伐らしてもらったが、
近年は散策を楽しむ人も多く、さすがの私も鋏がでない。






「藪椿の小径」のイメージイラスト








  


Posted by かとうさとる at 05:51 | Comments(0) | とよた風土記