2013年10月24日

舞台化に向けて/飯野八兵衛とは何ものなのか












飯野八兵衛とは




    義人・飯野八兵衛の公演ポスター


このブログでもたびたび紹介しているが
稲武の郷土資料館「ちゆ~ま」に
県の有形民俗文化財に指定されている
人形浄瑠璃の頭と衣装が展示されている

江戸時代の中頃、稲武地区の小田木に伝えられ
明治のはじめに途絶えた小田木人形座を語る貴重な資料だが
その中に宝暦弐歳の紀年銘のある人形浄瑠璃の頭がある

小田木で人形浄瑠璃が奉納されていた同じ宝暦弐年
挙母藩では藩をゆるがす大事件が起きていた
世にいう「飯野八兵衛事件」である






    飯野八兵衛の墓所林宗寺(藤岡飯野町)


飯野八兵衛事件

事件は挙母藩が国替による出費や新城建造の準備金など
多額な費用を用意するため
厳重な検地を実施して増収を図ったことで端緒がひらいた




    隅櫓の石垣が残る挙母城址(元城町)
    挙母藩は新城の築造に着手したが水害などにより築城をあきらめて
    現在豊田市美術館の建っている七州台に移転した
 


当時の藩財政の窮乏は挙母藩だけでなく
国表と江戸詰のための経費で藩の年収の40%近くに達していた

各藩は苦し紛れに蔵米を担保に
商人たちから借りた高利の金で補うほかはなかった

一方、無理をしてしぼりあげた百姓たちの血のついたような蔵米は
商人たちに想うように買いたたかれ
おまけに彼らの売り惜しみで江戸や大坂では
極端な米不足が生じていた

庶民は、毎日のように跳ね上がる法外な高い米を買わねばならず
買えないものは餓死をまつしか方法はなかった

事件はこのような時代を背景にした
百姓たちの止むにやまれない決死の蜂起だった

当然のように各藩で百姓一揆はおきた
三河地方だけでも54件を数えたというから
この頃から幕藩体制に歪が起きていたことは容易に想像がつく



飯野八兵衛事件の特異性


藩政への不満がマグマに達した宝暦2年12月3日
飯野村(現在の藤岡飯野町)
迫村(現在の迫町)
舞木村(現在の舞木町)
四郷村(現在の四郷町)の四村を中心に領民1,242人が蜂起

途中の岡崎領内で900名余を帰村させた
八兵衛ら各村の庄屋は残った約300人を導いて
江戸詰めで江戸屋敷にいた藩主に直訴に及んだ




    飯野八兵衛が眠るお墓(藤岡飯野町)


顛末は舞台を見ての楽しみで説明は省くが
この飯野八兵衛事件の特異性は
八兵衛らリーダー6名の打ち首という犠牲と引き換えに
一揆側の勝訴で百姓たちが救われたことである

当時の一揆がいつの間にか暴徒の集団となって挫折するなかで
独り彼らだけが要求の貫徹に成功したのは
八兵衛の良知と胆力とともに
村人たちの整然とした行動と団結を前に
挙母藩の上下がふるえあがったからである



舞台化の経緯

一昨年の夏頃だったと思うが
親しくしている吟舞夢舞台の代表の松尾樹豊さんから
平成23年度豊田文化功労賞受賞を記念して
新たな構成吟(詩吟で構成した舞台)の本を依頼された

私は「加茂一揆」と「飯野八兵衛」の二つの事件を題材にした
郷土史劇の構想を提案

構想は本の準備に1年
舞台の準備に1年の2年計画で動き出した

途中の経緯は省くが
「義人・飯野八兵衛」の著者
長井紀章(本名永井忠夫)さんの自宅を訪ねて
舞台化の構想を説明
既に著者は亡くなっていたが
ご長男の永井昌氏から快諾を得たのが昨年の夏

紆余曲折をへて脱稿したのが今年の夏
舞台は流れるかどうかの瀬戸際で
既に記したとおりである


  


Posted by かとうさとる at 00:53 | Comments(0) | とよたの文化