2012年12月01日

生物多様性の時代をひらいた児ノ口公園




落ち武者は
薄の穂にも怖ずというが
いまの私は電話やメールにも
ドキッ!



何でも安請け合いするバツで
年内はデスクワークで缶詰になりそう
いいトシしてサイテイ

まあ、こんな事はどうでもいいが
昨日は三河印刷の稲葉さんと寺本デュオリサイタルの
プログラムの打合せをした帰路
児ノ口公園の紅葉が目にとまってクルマを停めた







一見して都心に残されたサンクチュアリ、里山のように見えるが
この都市公園がグランドやプールのあったスポーツ公園を
多自然工法でより自然に近い里山に作りかえたと知ったら
驚く方もいるのではないか







児ノ口公園は豊田市駅から徒歩で10分ほど
もとは国道248号に面し市内で初の市営プールや
草野球のグランドが整備されたスポーツ公園







施設の老朽化や手狭になったこともあるが
1990年代半ばに子どもたちの歓声が聞こえるプールや
野球ができるグランドを潰して自然公園を作るという
発想をした市民と市職員と決断した市長に拍手(パチパチパチ)

当時事情を知る私でも理解不能だったから
ドイツなどヨーロッパの近自然公園を知る一部の関係者以外は
ほとんど「もったいない」と思ったことは想像に難くない







経緯は省くが
暗渠になっていた昔の里川(五六川)も地上に復活
野鳥やホタルも戻ってきた児ノ口公園は
2004年土木学会デザイン賞を受賞
生物多様性の時代をひらいた都市公園モデルとして
いまも全国各地から視察に訪れる人が絶えることがないそうだ



児ノ口公園は
衣の君落別王が眠る
パワースポット
 

ここまで書くと
児ノ口公園=近代的な自然公園を
イメージする人もいるかも知れないが
今日のサプライズはこの公園の下に
衣の里のパワースポットが
眠っているという都市伝説のオハナシ

児ノ口公園の西の端に
児ノ口公園の名の由来になった古い社が祀られている

祭神は第11代垂仁天皇(すいにんてんのう)の皇子で
古事記に「三川衣君」(みかわころものきみ)の祖と
書かれている落別王(おちわけのみこ)

いまも衣浦湾(三河湾)の名が残るように
伝承によると古事記が著された時代、衣の里は広く
この地を開いて治めていた落別王は
碧海西部、知多東部を見て回っている途中に
児ノ口公園のあるこの地で亡くなったとのこと







どこにでもある都市伝説の一つだが
東日本大震災で民間伝承の重要性が明らかになったように
私たちは先人が語り継いだ民間伝承に
もっと耳を傾けてもいいのではないか

写真は落別王の墓とされる前方後円墳の上に祀られた
衣の君落別王命陵(児ノ口神社社伝)



こちらは参考までに






コピーは亡くなった郷土史家の若子旭さんが編纂した
豊田市教育委員会発行「資料に見る明治・大正・昭和のあゆみ」
より転載したもので、記事は加茂時報(現在の加茂タイムス)







現在の児ノ口公園を第三次公園
昭和30年代のスポーツ公園を第二次公園とすると
第一次児ノ口公園といえるもので
私は挙母新八景の一つとして描かれたのを
見た記憶があるが定かではない










  


Posted by かとうさとる at 14:40 | Comments(0) | アーカイブ