2010年02月22日

いま畑村洋太郎の失敗学に学ぶ


人も組織も頂上でつまづく

ニュースによると、大量リコールで米議会から公聴会への招致をうけていたトヨタ自動車の豊田章男社長が、訪米を決断したとのこと。この間のトヨタの対応は、火に油を注ぐようなミスマネージメントの連続で、失態の誹りを免れない。




トヨタ本社の全景



1995年、創業家以外で初の社長となった奥田碩は、社長就任の記者会見で「トヨタに大企業病の兆しがある」と課題を指摘。「あの堅実なトヨタがまさか」と話題になった。
同じ年、東海村で臨界事故が発生。雪印乳業の食中毒事件、三菱自動車のリコール隠し問題と、大企業の失態が続いた。

説明は省くが、これらの失態に共通するメカニズムを解き明かした東京大学教授の畑村洋太郎は、2002年、失敗から学ぶNPO法人「失敗学会」を設立した。私がこの間の経緯を記憶しているのは、当時、職としていたアートマネージメントにも「失敗学が応用できるのではないか」と考え、研究したことがあったからである。

話が余談に逸れてしまったが、トヨタの失態の予兆はこの頃から顕在化していたわけで、失敗学に学べば未然に防ぐことができただけに、かえすがえすも残念。


豊田喜一郎の夢の原点を辿る

トヨタ自動車工場の建設を伝える
昭和12年11月29日発行の①加茂時報

「擧母 資料にみる明治、大正、昭和のあゆみ」より転載





(記事の要旨)
町並びに工場誘致委員会の努力によって、擧母町南方の論地ケ原に建設中の豊田自動車工業株式会社の建設が目前になった。また北方の伊保原は、②愛知時計会社の飛行機試験場に内定し測量も終わった。③衣ケ原飛行場には民間飛行学校の建設案も具体化するなど、擧母町は大きく飛躍の時を迎えた。このチャンスを逃せば悔いを千歳に残すことになる。
このため町会議事堂において、町議、区長、商工会、耕地整理組合幹部などが参集し協議会を開催した。
●豊田工場の従業員は7千名と言われている
●明春3月までに4千余戸の住宅建設が必要
などの協議が行われ、町発展のために営利を度外視し、
家屋、土地会社を設立するための準備委員を推薦するなど、
大擧母建設のスタートを切ることになった。

(注釈)
①加茂時報
地元発行の地方紙で現在の加茂タイムスの前身。
②愛知時計会社(愛知航空機)
海軍用の航空機を生産。伊保原飛行場で訓練をうけていた
海軍航空隊は、昭和17年4月名古屋航空隊となり、神風特攻隊草薙隊は、昭和20年4月この飛行場から飛びたった。



伊保原飛行場の特攻隊兵舎(豊田市郷土資料館蔵)昭和20年

③衣ケ原飛行場
軍部から航空機生産の協力要請をうけたトヨタ自動車が工場建設に着手。のちに三菱重工業株式会社名古屋発動機製作所第22製作所に移管。跡地は現在のトヨタ自動車元町工場。
またまた余談に逸れるが、私の生まれ育った土橋から衣ケ原まで数キロと近く、私たち悪ガキは「アカ」と呼んでいた銅屑を拾って遊んだ。小銭を稼ぐのが目的だが、当時、土門拳の世界は日本中いたるところにあったのではないか。


建設中の豊田擧母工場





レールは資材を運ぶトロッコ
後方の山は野見山と思われる
(市政ガイドより転載)


昭和13年11月3日
豊田擧母工場操業開始






国産自動車の大量生産の夢をのせて竣工した豊田擧母工場
(市政ガイドより転載)


道をひらくのは勇気と決断





世界に飛躍したトヨタ旧本社
市民にとってトヨタは家族のようなもので
身の丈にあったこの大きさがトヨタの原点



  


Posted by かとうさとる at 02:30 | Comments(0) | とよた風土記