2009年01月12日

明治用水のいまむかし





日本の近代土木の端緒をひらいた明治用水

矢作川を源に、西三河八市を潤す明治用水は、文政10年(1827)、碧海郡和泉村(現安城市)の豪農都築弥厚が幕府に出願したことにさかのぼる。弥厚は志半ばで病没、幾多の困難を乗り越え明治13年(1891)4月、日本の近代土木にエポックをしるした初の練積コンクリート造り(表面は石張り)の堰堤が完成。翌14年9月、明治用水と命名された。(写真は若子写真館所蔵)


ときは流れて

当時、山の学校とよばれていた中小学校(現童子山小学校で、当時の学校は現在豊田市美術館が建てられている)の遠足コースは、野見山と水源に決まっていた。どこで昼食をとったか覚えがないが、水源の「舟通し」を渡ると、堰堤に幅1メートルほどの板が架けられていた。

この堰堤を一人づつ順番に渡るのだが、足元を紺碧の水が濁流のように逆巻いて落下し、足が竦むどころの話ではない。板子一枚地獄の底というが、恐怖で膝が折れた悪ガキもいた。あれから半世紀余の歳月が流れた。日本の近代土木の端緒をひらいた堰堤は新しくできた水源ダムに水没。湖畔は桜の名勝に変わった。



トラックや鉄道に輸送手段が変わるまで、矢作川は物流の一大動脈だった。土場とよばれる川湊が賑わい、最上流の「古鼠土場」で荷揚げされた物資は馬車に積み替えられ、遠くは信州、東濃方面に運ばれた。手前の水路は川舟を通す「舟通し」の遺構。

  


Posted by かとうさとる at 14:28 | Comments(0) | とよた風土記